もう三十年くらい前、R42で三時間くらいの道を延々と南に走って、ようやく家に帰れるという時がありました。何か月に一回、そういう時があって、県庁所在地から自分の家まで帰るのに、それはもう必死になって峠の上り下りをしなきゃいけないし、眠くもなるし、お腹は減るし、気力は続かないし、ただ家に帰る、家族のもとに戻る、その気持ちだけで乗り切らねばなりませんでした。
遊んでたんじゃなくて、仕事して夕方になって、それで帰っているんだから、しかも厳しい山道で、細長い三重県は大変だなというのを身をもって感じました。
昔は、こんなことはなかったと思われます。船で尾鷲の町は江戸とつながっていたというし、熊野灘に面した小さな町出身の河村瑞賢さんは、日本を一周する北前船の航路を作り出したり、海の道がありました。
熊野の道もあっただろうけど、それは巡礼の道だから、しんどさをかみしめなきゃいけなかったのか。
そんな昔はあったものの、私はとにかく三時間で家に帰る。そうすると、R42はそういう何台かがたまたまグループになってしまうことがあったんです。
信号はあまりない。スピードは制限速度を少し越えて、みんな一団になって、そんなに無理するわけじゃないけど、みんな同じように家路を急いでいる。たぶん、運転している人は一人なんです。営業の人はそんなにいなくて、トラックなどの流通業の方たちもいなくて、軽自動車もいなくて、だいたい同じようなクルマが、同じようなスビードで曲がり、進みしていることがあった。
そういう時、私は集団の仲間に入れて、とてもうれしかった記憶があります。たいてい四番目とか、七番目とか、後方につけている。私の後ろにも何台かつく場合もあるし、私が最後尾の時もある。
せっかちな人は、追い越し車線のところで猛スピードで抜けていくので、ある程度の速度を守りつつ走りたい人たちが自然と集団になるんです。
友だちでもないし、知り合いでもない。たまたま同じ時間帯に、同じように南に向かって走っている。たぶん、みんなどこかのオトーサンたちなんです。
その中に仲間入りして、ようやく私も社会の一員になれているのかも、と変なところで納得していた気がします。
だから、今も、そういう状況がやってくればいいんだけど、今はそういう長い距離を走る通勤ではないし、そういう人たちが走る道ではないようです。
古い街道をベースにした国道を走っているんだけれど、今は東西に走っているせいか、そういうクルマの集団に出会いません。
ただせっかちな人と、ものすごくゆっくり走る軽トラと、コンビニから突然割り込んだかと思うと、すぐにホームセンターにまた入る人とか、みんなゆったり道をどこまでも走って行こうという人はいません。
でも、夕方、一瞬そんな場面が来た! とうれしくなったと思ったら、すぐに集団は解体されて、みんなそれぞれの道に分かれていきました。信号でも分断されちゃうのかな。
ああ、また一人ぼっち。仕方がない。ただ家に帰っているだけなんだから、別に誰かと一緒じゃなくてもいいわけだ。グループなんて要らない。ただ、自分のやることだけやる。帰ったらお酒飲んで寝る。それでいいのだ。
そう言い聞かせてるけど、やはり、どこかで、クルマの集団に入りたい。渋滞はイヤだけど、同じ速度で同じ方角に向かう、名も知らぬ仲間みたいなものに参加したい。そう思ってました。それはまあ、いつものことなんです。