甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

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トロッコからアホウまで! 芥川さんの作品たち

2020年07月15日 22時22分45秒 | 本と文学と人と

 久しぶりに本屋さんに行きました。岩波文庫から芥川さんの句集が出てたから、それは買いましたけど、見てみたら、紀行文集とかも出ていた。随筆集も出てるのかな。それは見てないかも。

 もう一度、芥川さんを見直そう、これは私だけではなかったみたいです。いろんな人もふたたび注目しているかもしれない。

 何だか残念なのは、芥川さんは紀行文集チラッと見たら、中国の旅行記も書いてたから、もう少し中国に取材した作品も書いてくれたらよかったんですけど、そこまではしてくれませんでした。私は、個人的には『杜子春』とか好きでした。日本の説話文学もアレンジしてしまえるんだから、『捜神記』とか、中国のオバケ物語みたいなのも取り上げてもらったらよかったんですけど、今さら言っても遅いですね。

 『トロッコ』『蜜柑』など、少年物もあるんだから、そちらでも見させてもらうしかないかな。紀行文集は買いませんでした。また何十年も放置するのが見えてたから。でも、あと何十年も私が生きてるのかどうか……。まあ、それは分かんないですね。


9 小田原熱海間に、軽便鉄道(けいべんてつどう)敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村はずれへ、その工事を見物に行った。工事を……といったところが、ただトロッコで土を運搬する……それが面白さに見に行ったのである。(1922・T11)
 これ、うちにあるんだろうか。ネットじゃなくて、紙の本で見たいんです。しかも、できたら大きな活字で、寝ころんで読める本ないかな。

10 お住の倅(せがれ)に死別れたのは茶摘みのはじまる時候だった。倅の仁太郎は足かけ八年、腰抜け同様に床に就いていた。こういう倅の死んだことは「後生よし」と云われるお住にも、悲しいとばかりは限らなかった。(1924・T13)
 このお話が入ってる本、今度買ってきました。珍しいです。今さらながら、芥川龍之介なんて、変な興味があったんですね。ハイ、江戸時代を扱ってる作品が入ってて、ずっと読むチャンスがなかったものですから、とうとうオッチャンになって読むことにしました!

11 大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院(えこういん)の近所だった。彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。美しい家も一つもなかった。殊に彼の家のまわりは穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだった。それらの家々に面した道も泥濘の絶えたことは一度もなかった。(1925・T14)
 このあたりから、芥川さんは自分探しを始めたのかもしれない。いろいろと才能を発揮してきたけれど、この自分とはどのようにして生まれてきたのか。そして、どこへ行くのか、あのゴーギャンだって、いろんなアーチストがそこに戻ってきて、またエネルギーを見つけ出そうとしましたっけ。

12 これは或る精神病院の患者--第二十三号が誰にでもしやべる話である。が、一見した所は如何(いか)にも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、……いや、そんなことはどうでも善い。(1927・S2)
 おもしろい話なのに、その語り手を狂人という風に切り捨てなきゃいけないのが、芥川さんの厳しいところでした。そんな風にしなくても、ごく普通の人が、道をまちがってそういう世界に入り込んだ、というふうに書いてくれたらよかったのに。いや、おとぎ話でもよかったのに。いや、そういう普通の人には行けない理想郷にしたかったのか。それとも、あえて自分の狂おしさに向き合いたかったのか。あまりにも見えすぎてた芥川さんは、そういう風にしなければいけなかったのかなあ。

13 僕は或る知り人の結婚式につらなる為に鞄(カバン)を一つ下げたまま、東海道の或る停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両側は大抵松ばかり茂っていた。上り列車に間に合うかどうかはかなり怪しいのに違いなかった。自動車には丁度僕の外に或る理髪店の主人も乗り合わせていた。(1927・S2)
 もうここへ来ると、私は怖くて手を出せていませんでした。もう何十年も遠ざかってた世界です。近々こちらものぞいてみたい気はしています。

14 それは或る本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリンドベリイ、イプセン、ショウ、トルストイ、 (1927・S2)
 この作品、何という名前なんだろう。分からなくなっています。調べてみます!

15 わたしは彼是(かれこれ)十年ばかり前に芸術的にクリスト教を、殊にカトリック教を愛していた。長崎の「日本の聖母の寺」は未だに私の記憶に残っている。こういうわたしは北原白秋氏や木下杢太郎氏の播いた種をせっせと拾っていた鴉(からす)にすぎない。(1927・S2)
 キリスト教も、芥川さんのテーマの一つになりました。生きること、宗教、芸術、自分、家族、いろんなものが気になっていったんですね。ファンタジーも書いてたのになあ。

16 僕はこの原稿を発表する可否はもちろん、発表する時や機関も君に一任したいと思っている。君はこの原稿の中に出てくる大抵の人物を知っているだろう。しかし僕は発表するとしても、インデキス(注釈?)をつけずにもらいたいと思っている。
 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている。しかし不思議にも後悔していない。ただ僕のごとき悪夫、悪子、悪親を持ったものたちを如何(いか)にも気の毒に感じている。ではさようなら。僕はこの原稿の中では少なくとも意識的には自己弁護をしなかったつもりだ。
 最後に僕のこの原稿を特に君に託するのは、君のおそらくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。(都会人という僕の皮を剥ぎさえすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆(あほう)さ加減を笑ってくれたまえ。(1927・S2)
 この1927年、怒涛のように書き続け、7月24日に亡くなられます。もちろん、ボンクラの私には、芥川さんの胸の中なんてわかりません。ただ、残念だし、つらいなあと思うばかりです。だから、私には小説なんて書けないし、駄文しか書けないでしょう。目の前にあることを、要領を得ずにダラダラ書く、それが私です。

 河童忌というのがやってくるんですね。きっと私たちは、何か得られるはずなのに、何も見つけられないと文句ばかり言って、ちっとも本質が見えてないんでしょう。いや、芥川さんの足元にもたどり着いていない。

 まあ、せいぜい頑張ります!


答え 9・トロッコ   10・一塊の土    11・大道寺信輔の半生
   12・河童    13・歯車      14・?  
   15・西方の人  16・或る阿呆の一生

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