昨日、神戸に「ターナー展」を見てきました。予想を裏切らない、丁寧で朦朧とした絵がたくさんありました。テーマとしては、イギリスの山村・漁村、お城のある郊外であったり、イタリア・フランスなどを旅したときの風景などでした。見に来たお客さんはたくさんいて、みなさん熱心に見ておられました。もう少しガラガラであればよかったのですが、そんなわがままは言ってはいけないですね。
Joseph Mallord William Turner 1775-1851 ロンドンの理髪師の子。14歳でロイヤル・アカデミーの学生となる。はじめオランダの風景画家H.ヴァン・デ・ヴェルデの影響を受けたが、1815年頃クロード=ロランに傾倒し始める。幾度かのイタリア旅行で、古典的な世界から抜け出し、文学的な主題や動的な世界を幻想的な光と色彩で描く独自の画風を完成、のちのフランス印象派にも多くの影響を与えた。〈コンサイス外国人名事典〉
作品の数々は、イギリスのテートコレクションから選抜されたものらしいのですが、すでに二百年以上も経過した作品です。ということは、現代の我々が浮世絵の歌川広重を見て、当時の風景を思い描くのと少し似ているのかもしれません。北斎を見るのとは少し違う気がします。北斎はとにかくあっといわせる絵を描いて、鑑賞者を無理矢理「なんだこれは!」と思わせる、岡本太郎的な風景画です。けれども、広重の風景画は、「ああ、そうなんだね。ここではこんな風景が広がっているんだね」と旅情をかきたててくれる絵です。北斎は、旅情どころではありませんね。
それで、たぶんターナーは、広重的な風景画なのだと思います。イタリア・フランスの景色も、見る者に旅情を起こさせる、「いつかここに描かれた風景を、自分の目で見たい」と思わせてくれる、丁寧な作りの絵なのでしよう。どこか、川合玉堂や下村観山などの近代日本画の作家たちの風景画の西洋版を見ているような感覚もありました。もちろんターナーの方が百年早く生きてた作家ではありますけど……。
ところが、丁寧で真面目に風景を描いているのかというと、そうではない部分もあって、次第に事細かな描写よりも、光や影を映すことに力が入っていき、もう何だか朦朧と描かれた作品が増えていき、どんどん現実を離れていきます。デッサン力はあるのだから、その気になれば丁寧・克明・微細・細密と力を発揮できたはずなのですが、それはやめてしまって、なんともいえないモワッとした世界を追求していったようです。
そんなわけで、図録は丁寧にそれらを再現しようとして印刷もがんばっていたようですが、一筆せん、絵はがき、カレンダー、クリアファイルどれをとってもいまいちで、残念ながらお土産が買えなくて、仕方がないなあと、手ぶらで神戸市立博物館を出てしまいました。それが残念でなりません。だったら、図録を買えよ、という話ですが、ビンボーなボクにはそれが買えなかったのです。まあ、それはそれで仕方のないことです。せいぜいパソコンなんかで、それらしい絵を探すことにします。
でも、たぶんそれは本物のターナーではなくて、加工されたターナーです。本物のターナーは、わけのわからないかすみの向こうにうっすらと見えていて、鑑賞したい人が絵の前まで足を運んで実際に見てみないと、見えないものなのでしよう。いや、たぶん、目の前にしたところで、ほんの一瞬ではわからなくて、ずっと手元に置いて、いつも見ていて、突然ハッと思い当たるような、なかなかインパクトが遅い、ものすごく効いてくるまでに時間のかかる絵なのではないかという気がします。
だから、ボクは、せいぜい「今度いつ見られるだろう」と心待ちにして、次なるチャンスを待っていようと思うのです。または、世界各地にあるターナー作品を巡礼するしかないですね。ぜひ、そうします。スペインにはないですね。イギリスか、アメリカか、英語圏の国に出かけてみましょう!
そうです! 今日は酔ってません。まじめに書かなきゃいけません。