2014年1月11日05時00分 朝日新聞に載ってた記事でした。
「敗戦・復興・国威発揚 幻の40年五輪、再構築江戸=東京の記憶失う」
という見出しがついていました。
という見出しがついていました。
(この記事の載った2014年から)10年前、天草諸島最南端の町まで、とある橋を見に行き、矢作さんは名高い建築家の手になる橋を見たそうです。2004年くらいでもバブリーな建造物があったようです。
橋と町を見て回るためにチャーターした地元タクシーの運転手さんに、それ(税金のムダ?)を言うと、橋があまり役に立っていないことは認めつつ、「ひとつくらい東京にしかないようなものが、この町にあってもいいんじゃないですか」と邪気なく笑った。
東京では90年代早々に終わった浮かれた時代が、流れ流れてここまでたどり着いたということだろうか。
すると運転手さんは「昔はもっと東京が遠かった」と、話を続けた。
中学卒業と同時に、彼は同窓生ほぼ全員とともに東京へ集団就職したという。当時の天草にはバイパス橋はおろか本土と繋(つな)ぐ橋さえなく、船に乗りバスに乗り、何十時間も汽車を乗り継ぐ強行軍の末、ふと眠りから覚めると、列車はビルをかすめ、都会の夜空を飛んでいた。彼は腰を抜かした。
東京では列車が空を飛ぶのか! 本気でそう思ったそうだ。
東京では列車が空を飛ぶのか! 本気でそう思ったそうだ。
何のことはない、高架軌道を走っていただけだった。天草から来た15歳には、鉄道も高いビルも生まれて初めて、まして高架や立体交差など見たことも聞いたこともなかった。
「1964年、オリンピックの年ですよ」。運転手さんは遠い目で笑った。
「1964年、オリンピックの年ですよ」。運転手さんは遠い目で笑った。
今だったら、この運転手さんは72歳になるわけで、私とそんなに年も違わない感じです。
彼が列車で空を飛んだ春、東京では東海道新幹線の、空港モノレールの、首都高速道路の高架が、その空を覆おうとしていた。
日本中の人とモノが濁流のように集まり、それまで都市と農村の乖離(かいり)であったものを、東京と「その他」の乖離に変えたとも言えるだろう。
その変化が、彼にとってどれほど輝かしい「未来」だったか、私にだって想像するくらいはできた。何しろ、そのとき赤坂見附に造られた立体交差は、何年か後、タルコフスキーのSF映画で未来のメガロポリスの実景として使われたほどなのだ。
だが当時、渋谷近くの中学に通っていた私には、それはなまなかな変化などではなく、破壊そのものにも感じられた。青山通りからは道路拡幅のために都電がなくなり、グリーンベルトも消え失せ、ワシントンハイツに広がるアメリカ東部の郊外のような町は重機の走り回る禿(は)げ山に取って代わられた。通学路は資材を満載したダンプに埋めつくされ、雨には泥水が、晴れには埃(ほこり)が舞い飛んで、それこそ「バイパスが必要」だった。
オリンピックがやって来るということは、環境破壊を受け入れるということでしたか。そうじゃないところもあるだろうけど、この国では、オリンピックは経済活性化しか見えてなかったんですもんね。
今も環境破壊は進んだことでしょう。そして、ついでに人々の暮らし・人のつながりも破壊することになったんですね。すべてを犠牲にして、日本人の持っていたおおらかさも捨てなきゃいけなくなったんでした。何も信じないで、自分のことだけを考えるようにさせられたわけですね。
オリンピックを前にしたある日、川面を往(ゆ)く高速高架によって空を奪われたという日本橋を、友人と見に行った。実物の日本橋を目にするのは初めてだったが、そのとき襲われた不思議な喪失感は今も鮮明だ。
あらかじめ持ち合わせてもいなかった過去を失うなどということがあるだろうか。
だが事実、オリンピックのために私の前から消え失せたものの大半は、私の見たこともない景色であり風物だった。横浜で生まれ育った私は、東京の街衢(がいく)を知るようになってまだ2年とたっていなかった。
そのマイナスのデジャヴとでもいうような不思議な感覚を、東シナ海に突き出した最果ての町にかかるポストモダンな橋をタクシーで行きつ戻りつしながら、私はありありと思い出した。言うなら同じ時、彼が飛んだ空を、私は地下から見上げたのだ。
結局、私の前に未来として登場したオリンピックは、茶の間で見た開会式といくつかの競技だけだった。いや、茶の間にやって来て私を虜(とりこ)にした未来は、オリンピックそのものではない。カラーテレビの方だ。
そうですね。今さらオリンピックに何を期待するというんでしょう。
2014年に矢作さんはすでに1964年から類推される2020年の空を見ていたんですね。
すごいなあ。私にそんな力があればなあ。ただ、コロナでオロオロしているだけで、何にも見えていないのです。
この項はまだ続きます。