草鞋の話 旅の話 そのつづきです。
てっきりどこか遠いところを歩いていくのだと思いましたが、そうではありません。関東に住んでいるんだから、そのまわりを足を頼りに歩くしかありませんもんね。それにしてもすごいです。そして、いつくもの谷が見えて来そうです。
富士の裾野の一部を通って、所謂(いわゆる)五湖をめぐり、甲府の盆地に出(い)で、汽車で富士見高原に在る小淵沢駅までゆき、そこから念場が原という広い広い原にかかった。八ヶ岳の表の裾野に当たるものでよく人のいう富士見高原などもいわばこの一部をなすものかも知れぬ。八里四方の広さがあると土地の人は言っていた。
その原を通り越すと今度は信州路になつて野辺山が原というのに入った。これは、同じ八ヶ岳の裏の裾野をなすもので、同じく広茫(こうぼう)たる大原野である。富士の裾野の大野原と呼ばるるあたりや浅間の裏の六里が原あたりの、一面に萱(かや)や芒(すすき)のなびいているのと違って、八ヶ岳の裾野は裏表とも多く落葉松(からまつ)の林や、白樺の森や、名も知らぬ灌木林(かんぼくりん)などで埋っているので見た所いかにも荒涼としている。丁度樹木の葉という葉の落ちつくした頃であったので、一層物寂びた眺めをしていた。
当時、もう静岡の沼津に引っ越しをされてたみたいで、そこから徒歩で富士五湖をめぐり、甲府に出て、さらに川をさかのぼり、とうとう小淵沢というところまで来たそうです。それをほとんど徒歩でこなしたというんだから、それが当たり前だったのかもしれないけど、昔の旅人というのはとても元気なものでした。
目に入るすべてが印象的だし、一つ一つが心に刻まれていきますね。カラ松の林って、白秋さんの詩にもあるけど、秋や冬に歩いていると、特別な気持ちになるんでしょうね。そんなに豊かな森ではないのかもしれないけど、そこでしか感じ取れない気持ちにはさせてくれる。
野辺山が原の中に在る松原湖という小さな湖の岸の宿に二日ほど休んだが、一日は物すごい木枯(こがらし)であった。ああした烈しい木枯はやはりああした山の原でなくては見られぬと私は思った。そこから千曲川に沿うて下り、御牧が原に行った。この高原は浅間の裾野と八ヶ岳の裾野との中間に位するような位置に在り、四方に窪地を持って殆んど孤立したような高原となっている。私はかつて小諸町からこの原を横切ろうとして道に迷い、まる一日松の林や草むらの間をうろうろしていたことがあった。
そこから引き返して再び千曲川に沿うて遡(さかのぼ)り、ついにその上流、というより水源地まで入り込んだ。ここの溪谷は案外に平凡であったが、その溪を囲む岩山、及び、到る所からふり返って仰がるる八ヶ岳の遠望が非常によかった。
そしてその水源林をなす十文字峠というを越えて武藏の秩父に入った。この峠は上下七里の間、一軒の人家をも見ず、唯だ間断なくうち続いた針葉樹林の間を歩いてゆくのである。常磐木(ときわぎ)を分けてゆくのであるが、道がおおむね山の尾根づたいになっているので、意外にも遠望がよくきいた。近く甲州路の国師岳甲武信岳、秩父の大洞山雲取山、信州路では近く浅間が眺められ、上州路の碓氷妙義などはあたかも盆石を置いたが如くに見下され、ずつとその奧、越後境に当たった大きな山脈は一斉に銀色に輝く雪を被(かず)いていた。
そんな30キロ近くも人の家のない道、もちろん舗装もされてないし、出会う人はいたんでしょうか。昔の峠というのは、それはもうたくさんの人が行きかったということだから、旅の人たちには出会ったかもしれない。
ことにこの峠で嬉しかったのは、尾根から見下す四方の沢の、他にたぐいのないまでに深く且つ大きなことであった。しかもその大きな沢が複雜に入りこんでいるのである。あちこちから聳(そび)え立った山がいずれも鋭く切れ落ちてその間に深い沢をなすのであるが、山の数が多いだけその峡も多く、それらから作りなされた沢の数はほんとに眼もまがうばかりに、脚下に入り交って展開せられているのであった。そしてそれらの沢のうち特に深く切れ込んだものの底から底にかけてはありとも見えぬ淡い霞がたなびいているのであった。
かすみを乗り越えて行く旅って、歩いていて仙人になった気分でも味わえたでしょうか。いや、人の営みって、一体なんだろうなんて自問自答し、そもそも自分は何のために歩いているのか? いやいや歩くために歩いているのであって、何かの目的を達成するとか、そんな成果目標があるわけではなかった。
歩きたいから歩く。だから、自然の中を歩く。人の中を歩くことはしない。
峠を降りつくしたところに古び果てた部落があった。栃本(とちもと)と云い、秩父の谷の一番奧のつめに当たる村なのである。削り下した嶮崖(けんがい)の中に一筋の縄のきれが引っ懸った形にこびりついているその村の下を流れる一つの谷があった。即ち荒川隅田川の上流をなすものである。いま一つ、十文字峠の尾根を下りながら左手の沢の底にその水音ばかりは聞いて来た中津川というがあり、これと栃本の下を流るるものとが合して本統の荒川となるものであるが、あまりに峡が嶮しく深く、終(つい)にその姿を見ることができなかった。
栃本に一泊、翌日は裏口から三峰に登り、表口に降りた。そして昨日姿を見ずに過ごして来た中津川と昨日以来見て来てひどく気に入った荒川との落ち合う姿が見たくて更にまた川に沿うて溯り、その落ち合うところを見、名も落合村というに泊った。
甲斐の国、信濃の国、武蔵の国、これらの土地は明確に山で隔てられています。人はそうした区切りの山に挑み、峠を越えて違う国に入り込む。そうすると、人はそこにも生きていて、同じようなものなんだけど、言葉が違ってたりする。太陽の方向も日の沈みやすい土地と日の昇りやすい土地とで雰囲気も違うでしょう。そして、その差を生かして人々は生きて来ていた。
かくして永い間の山谷の旅を終り、秩父影森駅から汽車に乗って、その翌日の夜東京に出た。するとそこの友人の許に沼津の留守宅から子供が脚に怪我をして入院している、すぐ帰れという電報が三通も来ていた。ために予定していた友人訪問をも焼け跡見物をもすることもなくしてあたふたと帰って来たのであった。
この旅に要した日数十七日間、うち三日ほど休んだあとは毎日歩いていた。それも両三回、ほんの小部分ずつ汽車に乗ったほか、全部草鞋の厄介になったのであった。
17日間の徒歩の旅、これが特別なのではなくて、これが当たり前の旅人たち、それを支える草鞋の数々、何足かを抱えて牧水さんは旅したのだと思われます。
この旅に要した日数十七日間、うち三日ほど休んだあとは毎日歩いていた。それも両三回、ほんの小部分ずつ汽車に乗ったほか、全部草鞋の厄介になったのであった。
17日間の徒歩の旅、これが特別なのではなくて、これが当たり前の旅人たち、それを支える草鞋の数々、何足かを抱えて牧水さんは旅したのだと思われます。
これで終わりではなくて、わらじの旅はまだ続くみたいです。屋根から見下ろす巨大な川たちの水源、見てみたいけど、私には無理なんだろうな。