甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

さらばラバウル 1954

2022年09月23日 20時53分36秒 | 本読んであれこれ

 水木しげるさんとラバウルの町を書いていて、引っかかってたのは「ラバウル小唄」でした。

 元歌は、「南洋航路」という1940年の歌があったそうです。それを戦後8年と少しして航空隊の兵士たちの映画を作ろうということで、東宝で企画されて、本多猪四郎という人が監督をして1954年の2月に公開されたということでした。池辺良さんとか、三国連太郎さんとか、岡田茉莉子さんとかが出たそうで、ヒットしたのかどうか、それはわかりません。

 ただ、航空隊の映画なので、特撮が必要で、「太平洋の翼」1953年でも活躍した特殊技術の円谷英二さんが担当することになったそうです。かくして、本多猪四郎・監督、円谷英二・特撮というコンビが確立されました。そして、それがそのまま同じ年の11月公開の「ゴジラ」へつながっていくのですから、太平洋戦争ものの映画が、特撮のツブラヤを育てていく道にはなったようです。

 戦前から特撮技術は取り組んできたんですから、もう長年取り組んだノウハウがあったんでしょう。

 「さらばラバウル」は、何となく懐旧的な内容ではなかったのか、日本人の心に引っかかるものではなかったのか、と考えたりします。だから、戦争に行かなかった人たちまで、何となく景気よく、それでいてウエットな雰囲気の歌をみんなで愛唱したんでしょう。

 円谷さんは、怪獣ものを1954年から作り始め、1967年のテレビでの特撮ものも同時進行させ、1970年の1月に亡くなってしまうのでした。1901年生まれなので68歳でした。そんな若かったのかと今さらながら思います。



 水木さんは、映画の盛り上がりも、関係なく過ごしておられたんでしょう。それよりも自分の生活で手いっぱいだったんでしょうか。

 そして、戦後26年してやっとニューイングランド島へたどり着きました。

 再会を誓った少年は、いつの間にか集落の酋長になっているということでした。村の中に分け入りました。

 部落を見わたすと、さすがに昔のおもかげはなく、家もヤシの葉の屋根ではなく、トタン屋根になっている。
 間もなく、トペトロが姿を見せた。にやにやしながら、大きな手をさし出した。
「パウロだ、わかるか」と言うと、
「ワカル、ワカル」
 食用蛙のような声で返事をし、手を握りしめた。

 とうとう二十数年思い続けていたことを実現しました。「すぐに帰る」と村人たちに宣言するほど、みんなに愛された水木さんでした。どうしてそういう波長を持っていたのか、それは不思議ですけど、戻って来た!

 さあ、どうなるんだろう。

 お芋のごちそう、ボウフラのわいた水で作ったインスタントコーヒー、この村の最高のもてなしを受けます。

 このあたりも、僕のほんのわずかの観察では、縄文人から弥生人へというぐらいは変わっているようだ。土地の所有権などが、だんだんはっきりしてきているみたいだ。
 僕が弥生人というのは、バカにしているのではなく、ほめているのだが、縄文人というのは、もっとほめているのだ。人類が進歩するといったって、僕は、進歩が必ずしも尊いとは思わない。世の中で一番大切なことは、幸福である。僕が戦時中に見た土人たちの生活は、幸福度がかなり高かったように思う。それは、僕の子供の時の、わけもなく楽しかった、あの気分に近いのだ。今は弥生時代ぐらいになっているから、トペトロが土地を私有しているが、それでも、美しい自然と常夏の気候は昔のままだ。トペトロは、家を建ててやるから、ここに住めと言う。僕は、だんだんその気になってきた。


 さあ、水木さんは、ここに住む気持ちになってきました。日本での仕事をすべて整理して、ニューイングランド島で生活することになるのでしょうか。

 何となく、危ないなと思いつつ、水木さんは、その時はそういう気分だったんでしょう。そして、何となく三度こちらへ来る決意はしていた。それが永住になるのか、どうなのか。

 それは、明日また書くことにします。4回も続けるなんて、何だかずるいけど、簡単には書けないんですよ。それではまた!

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