今日のお弁当、干し椎茸の煮物が三切れ入っていました。ああ、何たることでしょう。三つも入っているなんて! とうとう私はそのうちの二つを最後まで残すことになりました。残念なことでした。
一つ目は、真っ先につまんでゴハンを少し食べました。いつもの味です。これは、うちの母から伝わる味ですね。干しシイタケを水で戻して、元に戻ったものをしょうゆと砂糖とあと何かを足して煮たものです。もっといろいろな隠し味があるんだろうけど、とにかくこの味です。少しだけ甘すぎなのは、これも母の好みで、砂糖は割とたくさん入れていた気がします。甘い料理はぜいたくな感じでした。いや、それともカゴシマ風なのかな。違いますね。母の独自の甘さかもしれません。
中学の時から、ステンレスの弁当箱に輝かしく入っていた干しシイタケの煮たもの、私はこれ一切れでゴハンをどれくらい食べられたんだろう。お茶碗一杯は無理かもしれないけど、一つかみ、二つかみのゴハンならガボガボ食べられました。でも、ぜいたくに一つかみのゴハンでシイタケひときれ、これが弁当の醍醐味でした。他のオカズたちも、ゴハンのお供にしてあげなくちゃ! というので、お肉食べたり、野菜食べたりしたんでしょう。
小学校のころなら、よく分からない食材を煮たり焼いたりしたものを、よくわからないままに食べていた。わかるのは、揚げ物で、これはどんな食材でも好き嫌いはなかったでしょうか。食べ物の好みは、中学くらいからできていったのかなあ。まあ、母仕込みのお子ちゃま舌だったんですね。
そういえば、この前大阪に行ったとき、母から干し椎茸二袋もらったけれど、母はどういうつもりでくれたんだろう。単純に私が好きだから、というのもあると思われますが、奥さんにしてみたら、母からの変なプレッシャーだったでしょうか。
「お母さんは、こんな古い干しシイタケ買い込んでたんだね。お父さん(私)に食べさせようと思って!」
そりゃ、そうでしょう。母はそんなにシイタケ好きだったわけではないんじゃないかな。それに母は総入れ歯だし、シイタケみたいなものを食べられたんだろうか(食べる気になれば、食べられますね。シイタケで歯が折れるわけではなかった)。
昨日の奥さんが作ってくれたお弁当は、もう食べるものが一杯で、ゴハンはなくなったのに、オカズが残ってしまった。残念なことに、シイタケさまは、後で食べようと弁当箱のふたのところにのけておいたら、そのまま最後まで残ってしまいました。
ああ、シイタケさんごめんなさいと、シイタケだけを食べることになりました。どうして最初に全部食べられないかなあ。貧乏性なんですね。もったいないとか、最後にとっておこうとか、つまらない気持ちがやることに反映されてしまう。
シイタケひとつあれば、お茶碗一杯のゴハンを食べられる。でも、それはあまりにシイタケさんを偏愛することにもなるので、他の食材も食べることになる。ぜひ、そうしなければいけなくて、あちらこちらと食べていくことになるわけですね。
お粗末でした。