甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

東海の小島の磯

2020年05月17日 20時19分56秒 | 一詩一日 できれば毎日?

 新聞を見ていたら、原武史さんが、啄木は札幌から小樽の間を三度列車に揺られて沿線を見ているはずで、海など、どのように見えただろう、というのを書いておられました。

 歴史学者の方だから、啄木のことをあれこれ語ることはされなくて、とにかくそのような事実があり、当時の風景を今でもみられるところがある、というふうに、これまた鉄道オタクの方らしく、冷静に書いておられました。

 ボクは、学者ではなくて、ただの啄木好き・鉄道好きだから、
 だったら、朝日文庫で一ページに二首ずつ取り上げている「一握の砂」(復刻版みたいな文庫版です)を読んでみよう! と、他の本を投げ出して、こちらを読み始めました。

 290ページまであるから、580首ほどの短歌があるらしいのです。もちろん、フーンというだけのものがあったり、今回たまたまボクの心に引っかかるものがあったりします。今のところ、うしろから120ベージを読みましたが、そんなに引っかかるものはなかったですね(ものすごく時間かけて前から後ろへ読んだから、2回目は後ろから前に読もうという変な思いつきです!)。

 それよりも、有名なあの歌のこと、あれを今日は書いておかなくては!

  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる

 なんとこの歌は「一握の砂」のトップを飾る作品だったんですね。そうか、忘れてたな。
 
 そして、この歌碑は、北海道の函館の大森浜というところにあるそうじゃないですか。ボクは二回ほど函館にも行っているのに、まだこの歌碑のところまで行ってないけど、まあ、これは函館の大森浜をイメージした歌なんですか?

 大森浜の歌なら見つけています。

  しらなみの寄せて騒げる
  函館の大森浜に
  思ひしことども

 こちらはハッキリと書いてあるし、そこをイメージして書いたんでしょう。風景もちゃんと表現しようとしている。波が寄せる浜、うらぶれた浜の様子、そこでいつもながらの啄木くんは、恋もしないし、動きもしないし、ボンヤリとたたずんでいます。

 どうして彼はこんななのですか? そりゃ、旧制中学卒業前にカンニング事件を起こして退学になり、家はお寺の住職だったのに追い出され、一家は離散し、それなのに彼女と結婚はするし、小学校の代用教員をしたら、そちらで政治的なデモみたいなことを生徒を使ってやってしまうし、みんなからイヤがられ、放り出され、とことん居場所のない彼でした。



 小説は書いてみるけど、おもしろくなく、短歌は与謝野晶子さん・鉄幹さんご夫婦に認められもするけど、それでメシが食えるわけでもなく、仕方なしに函館、札幌、小樽、釧路と地方新聞の記者として生活をするんですが、もちろん彼は不満で、どうしてオレの小説が売れないんだよ! オラ、詩も書くんだぜ、おもしろいぜ! って本人は思ってるんですけど、これまた絶望的につまらないのです。

 どうして啄木くんは、詩になるとつまらない語句で飾り立てた空間を作ろうとするんだろう。短歌の素朴さでいいのに!

 彼は、むやみやたらに自分の才能を発揮させようとするんですけど、売れないのです。むしろ、評論やエッセイ書けばよかったのに、そちらは頭の中になかったんでしょうね。


 さて、東海の小島は、どこなんだろう?

 歌碑があるんだから、北海道の函館の海? いや、そういう限定された海ではないんでしょう。ちゃんと大森浜の歌は作っているんです。彼だってアホではないのです。ちゃんと大森浜はフツーに書けるのです。彼はそこに住んでたわけですから。

 だったら、作品集の一番最初だから、力は入ってたはずですよね。そう、ものすごく力の入った歌なんだと思う。

 「東海」とは、中国大陸から見たら、東の方の海の蓬莱の国、つまり、日本全体ということなんじゃないだろうか。

 そこの「小島」というのは、日本列島すべてを意味するんじゃないだろうか。大きな海の端っこの、いくつかの島々に住んでる「われ」という抽象的な存在がいて、自分の願いや夢や理想や現実が、いつもズッコケまくる人生を生きている私、気に入ってたかもしれない函館は、大火事で焼け出されて、札幌に避難するんだったかな。

 そんなうまくいかないことばかりの人生を振り返っている「われ」です。その人が「カニ」に向き合っている。この「カニ」も生き物のカニではなくて、人間世界ではまともに相手にしてくれる人もいなくて、彼もそうした人々を裏切りまくっていて、お金をせびったり、惚れっぽくて、いろんな女の子が好きになったりして、みんな彼から距離を置いていくのです。だから、彼はぼんやりたたずむしかなくなるのです。

 もちろん、彼はいつも誰かに支えられてしまうし、憎めないヤツだったみたいです。


 ボクは、海をテーマに啄木くんの「一握の砂」を開いています。あといくつか探してみます。

 でも、「東海の小島の磯」みたいな、大上段に構えた作品はないかもしれない。何しろ、この歌は、海も、砂浜も、カニも、われも、ただの抽象的なことばであって、そこに彼はいないのです。

 彼の心の中の海があって、その中で、たまたまカニを持ってきた。何だったら、フナムシでもよかったけれど、ヤドカリでもよかったけれど、音数の短いカニにしたんです。エイは浜にいないし、カイは動かないし、やはりカニですか。浜辺でカニなんて、簡単に見られないと思うんですけど……。

 何を発見したんでしたっけ? そうでした。「東海の」は、スケール大きな、彼の心の中の海、というのを表現したものだったのだ、というのを今ごろ気づいた、というボクの間抜けな話でした。そんなの、みんな知ってる話だったんだと思います。

 アホですね。人より遠回りはするし、時間をかけてしまうのがボクでした。ボクは啄木さんみたいになれないです。理想は、グランマモーゼスです!



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