ツバメが巣を作るおうちとは、それは名誉なことなのに、フンが下に落ちるから、ツバメの巣を毛嫌いするところもあるようです。天上に網をはりめぐらせたり、銀色のテープをつり下げたり、無理矢理できあがった巣を下から破壊したり、いろいろないやがらせをする人たちがいます。
ザンネンながら、私の家はツバメは見向きもしてくれず、ずっと恋しいのに、片思いのまんまです。好き嫌いがあるんでしょうね。以前住んでいた借家もツバメは来てくれなかったけれど、屋根にはたくさんのコウモリが住んでいて、10年以上前の私の家も、建てたらすぐにコウモリが住みついたりして、私の家はコウモリが好む家らしい。でも、すぐにコウモリの穴はふさいでしまったけれど、時間が経てばまた穴はできてしまうかもしれないから、そうしたらコウモリが来るかもしれない。
スズメだって、よそんちの雨樋に巣を作っていますし、トリたちと共存共栄は楽しいと思います。なぜか、コウモリはイヤですけど……。
というわけで(?)、原点回帰の孔子さんです!
19【子曰く、知者は( )ず。仁者は憂えず。勇者は懼れず】……知者は道理に明らかだから……しない。仁者は、私欲がなく、ことに善処できるから心配することがない。勇者は志気が盛んで果断として行える者だから、恐れるところがない。〈子罕〉
お弟子さんに向かってのおことばなので、すべて孔子さんが実践されているわけではないと思いますが、そうありたいということなのだと思います。
3つめはカンタンです。勇気ある者は、恐れないのだ。恐れずに、立ち向かっていく。失敗は常に私たちの生活について回ります。けれども、それらのリスクを恐れても、何も始まらないし、人間は本来失敗をする生き物なんですから、それを否定したって何もならない。
恐れずに飛び込むこと。それが大事である、というのはみんなが知っていることです。だから、孔子さんに教わるまでもない。
それをエラそうに、「崖から飛び降りるつもりで立候補します」という、どこかの女性議員さんは何度も報道陣にしゃべってますけど、あの一言だけで私なら投票しません。もっとしなやかなコメントをしないと、硬直化した発想で、硬直化した政策しかできないというのを、ことばで発信している気がします。だれも彼女に助言してくれる人はいないし、みんなそれでいいと思っているんでしょう。
それよりも、「さまざまな困難が待ち受けていようとも、私は恐れずに立ち向かいます」と、サラリと言ってくれたら、何だか少しさわやかな感じがしないかなあ。あのルックスだから、さわやかではないかもしれませんね。どうしても硬直化しないと気が済まないかも……。
2つめ、思いやりのある人は、心配をしない。これを聞くと弟子たちはハテナ? と思うかもしれない。「先生、仁者はいろんなことを憂えるのではないですか?」と質問をしたくなります。
先生はおっしゃいます。「思いやりのある人は、確かにいろんな人のことを心配し、あれこれとしてあげることを考えます。だから、ある意味憂える人です。それは思いやりのある人の他人に対する態度です。それはわかっていますね。」
弟子「それは私たちも知っています。仁というのは、人の生活のいろんな場面で必要な意識で、どんな形に変えて、その気持ちを表していくのか、それが私たちにとって大切な、考えねばならないところだと常に思っています。」
先生「そうですね。私たちは、仁・思いやりをどんなふうに表現するか、それは大事ですね。でも、それを実践しようという自分を振り返ってみてみなさい。」
弟子「それは、どういうことですか?」
先生「私たちは、いつも仁を第一義としています。それは私たちの生活すべてに浸透しています。だから、それは私たちにはもう当たり前ですね。」
弟子「未熟ながら、そうありたいと思っています。」
先生「だから、私たちは思いやりを行うことに関しては、何とも思いません。それをする自分は、当たり前のことをしているわけで、何の悩みもなくしてしまえる精神状態でしょ?」
弟子「そうでした。未熟ながら、その面では、自分を捨てることがわりとカンタンにできる気がします。あまり迷いません。だから、憂えず、ということですね。自分のことを心配しない。そうする自分が恥ずかしいとか、みんなにあれこれ言われないかしらとか、今日は都合があるからとか、そんなのを捨てられる私たちになれているんですね。」
先生「勇者はおそれずも同じことで、自分がどうなるかなんて、そんなことは考えない。とにかく人のためなら頑張る。人のためならあれこれ自分の都合なんかクヨクヨ悩まないということです。」
私「先生、知恵のある人間は、もちろん悩まないということになるんですね?」
先生「君は、三重県の私のお弟子さんになるのかな……。どれだけわかってるのか心配だけれど、まあ、がんばりなさい。」
答え 19・惑(まど)わず でした!
ザンネンながら、私の家はツバメは見向きもしてくれず、ずっと恋しいのに、片思いのまんまです。好き嫌いがあるんでしょうね。以前住んでいた借家もツバメは来てくれなかったけれど、屋根にはたくさんのコウモリが住んでいて、10年以上前の私の家も、建てたらすぐにコウモリが住みついたりして、私の家はコウモリが好む家らしい。でも、すぐにコウモリの穴はふさいでしまったけれど、時間が経てばまた穴はできてしまうかもしれないから、そうしたらコウモリが来るかもしれない。
スズメだって、よそんちの雨樋に巣を作っていますし、トリたちと共存共栄は楽しいと思います。なぜか、コウモリはイヤですけど……。
というわけで(?)、原点回帰の孔子さんです!
19【子曰く、知者は( )ず。仁者は憂えず。勇者は懼れず】……知者は道理に明らかだから……しない。仁者は、私欲がなく、ことに善処できるから心配することがない。勇者は志気が盛んで果断として行える者だから、恐れるところがない。〈子罕〉
お弟子さんに向かってのおことばなので、すべて孔子さんが実践されているわけではないと思いますが、そうありたいということなのだと思います。
3つめはカンタンです。勇気ある者は、恐れないのだ。恐れずに、立ち向かっていく。失敗は常に私たちの生活について回ります。けれども、それらのリスクを恐れても、何も始まらないし、人間は本来失敗をする生き物なんですから、それを否定したって何もならない。
恐れずに飛び込むこと。それが大事である、というのはみんなが知っていることです。だから、孔子さんに教わるまでもない。
それをエラそうに、「崖から飛び降りるつもりで立候補します」という、どこかの女性議員さんは何度も報道陣にしゃべってますけど、あの一言だけで私なら投票しません。もっとしなやかなコメントをしないと、硬直化した発想で、硬直化した政策しかできないというのを、ことばで発信している気がします。だれも彼女に助言してくれる人はいないし、みんなそれでいいと思っているんでしょう。
それよりも、「さまざまな困難が待ち受けていようとも、私は恐れずに立ち向かいます」と、サラリと言ってくれたら、何だか少しさわやかな感じがしないかなあ。あのルックスだから、さわやかではないかもしれませんね。どうしても硬直化しないと気が済まないかも……。
2つめ、思いやりのある人は、心配をしない。これを聞くと弟子たちはハテナ? と思うかもしれない。「先生、仁者はいろんなことを憂えるのではないですか?」と質問をしたくなります。
先生はおっしゃいます。「思いやりのある人は、確かにいろんな人のことを心配し、あれこれとしてあげることを考えます。だから、ある意味憂える人です。それは思いやりのある人の他人に対する態度です。それはわかっていますね。」
弟子「それは私たちも知っています。仁というのは、人の生活のいろんな場面で必要な意識で、どんな形に変えて、その気持ちを表していくのか、それが私たちにとって大切な、考えねばならないところだと常に思っています。」
先生「そうですね。私たちは、仁・思いやりをどんなふうに表現するか、それは大事ですね。でも、それを実践しようという自分を振り返ってみてみなさい。」
弟子「それは、どういうことですか?」
先生「私たちは、いつも仁を第一義としています。それは私たちの生活すべてに浸透しています。だから、それは私たちにはもう当たり前ですね。」
弟子「未熟ながら、そうありたいと思っています。」
先生「だから、私たちは思いやりを行うことに関しては、何とも思いません。それをする自分は、当たり前のことをしているわけで、何の悩みもなくしてしまえる精神状態でしょ?」
弟子「そうでした。未熟ながら、その面では、自分を捨てることがわりとカンタンにできる気がします。あまり迷いません。だから、憂えず、ということですね。自分のことを心配しない。そうする自分が恥ずかしいとか、みんなにあれこれ言われないかしらとか、今日は都合があるからとか、そんなのを捨てられる私たちになれているんですね。」
先生「勇者はおそれずも同じことで、自分がどうなるかなんて、そんなことは考えない。とにかく人のためなら頑張る。人のためならあれこれ自分の都合なんかクヨクヨ悩まないということです。」
私「先生、知恵のある人間は、もちろん悩まないということになるんですね?」
先生「君は、三重県の私のお弟子さんになるのかな……。どれだけわかってるのか心配だけれど、まあ、がんばりなさい。」
答え 19・惑(まど)わず でした!