土曜日、奈良の長谷寺に行ってきました。ボタンで有名なお寺ですけど、サクラも花盛りでした。
朝、松阪駅を出るとき、奮発して三百いくらのサンドイッチとオニギリ一つを買いました。長谷寺で食べるつもりでしたが、どこで食べるのか、あまりはっきりとした当てはありませんでした。
今ふりかえってみると、長谷寺はグルッとまわる分にはいいけど、あまりお寺の中で参拝客をあたたかく迎え入れるお寺ではないなと思います。
休憩するところが少ないし、さっさと回れ、見たら帰れ、というようなお寺になっている。通過点としてのお寺であり、平安貴族の子女があこがれ、参篭したお寺ではなくなりつつあります。
今はサクラが真っ盛り、モクレンもサンシュも、しだれも、ヒカンザクラも、ソメイヨシノも、木々は一生懸命に咲き誇っていますが、お寺としては、花の饗宴があるから十分だろう。観音さんをお参りした後のことなんて知らないよという感じです。
まあ、お寺なんて、そんなものではあるけれど、これでは中国の人たちは来てくれないかもしれない。写経道場とか、納骨堂とか、個別の問題を解決する場所はあるみたいですけど、参篭しようとかいう気にはならないし、そういう場所がありません。もっと楽しめるところやゆっくりするところがないと、じり貧という気がします。
初めて長谷寺を訪ねた二十年くらい前は、それはすごいお客さんたちでした。それが今は閑散としている。観音様はありがたいのに、どういうわけかお客さんが来ないのです。
お寺のパンフレットには、天武天皇のために道明上人という人が切り開き、聖武天皇の時代に、今度は徳道聖人が十一面観音像をおまつりして、西国三十三か所巡りが始まったということでした。
宝物館で見させてもらった「長谷寺縁起絵巻」には、近江の高島(琵琶湖の北部)に大きなクスノキがあって、その木が洪水か何かで流され、大津、宇治川を下り、奈良の方に進出してこちらまで木がさかのぼってきたということでした。
それが継体天皇の時代から何百年もかけて奈良時代くらいにこちらまで来た。それではありがたいご神木だからと観音様を彫り出し、お寺はできたということでした。
こんな山里までどうして木がのこのこと何百年もかけてやってきたのか、まさかお化けじゃあるまいし、木が登ってくるわけはない。本当は、たまたま洪水の時に流された巨木を有効利用しようとしたら、観音さんがいいということになり、転用して、山深いところで修行・参籠・宗教敷衍のため、人の力で運んだのでしょう。
それを伝説めかして縁起絵巻にまとめたということなのかな。新たな観音伝説を作ろうとしたのではないですか。
千年近くの歳月が経過し、何度か火災事故にも遭い、その度に復活させ、今日まで維持してきたわけです。
最近の二十年で、急速に人々の信仰心は失われ、観音さんをお参りしようという人々の情熱は失われつつあります。
ひょっとすると、二十年前に各地のお寺にたくさんの善男善女があふれていたのは、あれは私の父母たちの世代の人々だったのかもしれません。
今、お寺参りに熱心だった当時の中堅の人々・責任世代のみなさんは、みんな年をとられて、お寺参りどころではなくなっています。うちの母だって膝を痛めて、遠くにはいけないし、あんなに階段をものともしない人だったのに、階段もエスカレーターもダメになってしまいました。
だから、お寺も寂しくなってしまった。現在の中堅である私はお寺参りをしていますが、あと二十年後にはもうできなくなっているか、この世にいないかもしれない。
そして、お寺はあいかわらずそこにはあるだろうけど、人も来ないで、サビサビになっているかもしれない。参道の商店街は消滅しそうでした。
観光地も、外国人が支えているけれど、外国人の来なくなった観光地には未来がないのかもしれません。ああ、ビックリ。こんなになっているんですね。二十年後の長谷寺、どうなっているかなあ。
朝、松阪駅を出るとき、奮発して三百いくらのサンドイッチとオニギリ一つを買いました。長谷寺で食べるつもりでしたが、どこで食べるのか、あまりはっきりとした当てはありませんでした。
今ふりかえってみると、長谷寺はグルッとまわる分にはいいけど、あまりお寺の中で参拝客をあたたかく迎え入れるお寺ではないなと思います。
休憩するところが少ないし、さっさと回れ、見たら帰れ、というようなお寺になっている。通過点としてのお寺であり、平安貴族の子女があこがれ、参篭したお寺ではなくなりつつあります。
今はサクラが真っ盛り、モクレンもサンシュも、しだれも、ヒカンザクラも、ソメイヨシノも、木々は一生懸命に咲き誇っていますが、お寺としては、花の饗宴があるから十分だろう。観音さんをお参りした後のことなんて知らないよという感じです。
まあ、お寺なんて、そんなものではあるけれど、これでは中国の人たちは来てくれないかもしれない。写経道場とか、納骨堂とか、個別の問題を解決する場所はあるみたいですけど、参篭しようとかいう気にはならないし、そういう場所がありません。もっと楽しめるところやゆっくりするところがないと、じり貧という気がします。
初めて長谷寺を訪ねた二十年くらい前は、それはすごいお客さんたちでした。それが今は閑散としている。観音様はありがたいのに、どういうわけかお客さんが来ないのです。
お寺のパンフレットには、天武天皇のために道明上人という人が切り開き、聖武天皇の時代に、今度は徳道聖人が十一面観音像をおまつりして、西国三十三か所巡りが始まったということでした。
宝物館で見させてもらった「長谷寺縁起絵巻」には、近江の高島(琵琶湖の北部)に大きなクスノキがあって、その木が洪水か何かで流され、大津、宇治川を下り、奈良の方に進出してこちらまで木がさかのぼってきたということでした。
それが継体天皇の時代から何百年もかけて奈良時代くらいにこちらまで来た。それではありがたいご神木だからと観音様を彫り出し、お寺はできたということでした。
こんな山里までどうして木がのこのこと何百年もかけてやってきたのか、まさかお化けじゃあるまいし、木が登ってくるわけはない。本当は、たまたま洪水の時に流された巨木を有効利用しようとしたら、観音さんがいいということになり、転用して、山深いところで修行・参籠・宗教敷衍のため、人の力で運んだのでしょう。
それを伝説めかして縁起絵巻にまとめたということなのかな。新たな観音伝説を作ろうとしたのではないですか。
千年近くの歳月が経過し、何度か火災事故にも遭い、その度に復活させ、今日まで維持してきたわけです。
最近の二十年で、急速に人々の信仰心は失われ、観音さんをお参りしようという人々の情熱は失われつつあります。
ひょっとすると、二十年前に各地のお寺にたくさんの善男善女があふれていたのは、あれは私の父母たちの世代の人々だったのかもしれません。
今、お寺参りに熱心だった当時の中堅の人々・責任世代のみなさんは、みんな年をとられて、お寺参りどころではなくなっています。うちの母だって膝を痛めて、遠くにはいけないし、あんなに階段をものともしない人だったのに、階段もエスカレーターもダメになってしまいました。
だから、お寺も寂しくなってしまった。現在の中堅である私はお寺参りをしていますが、あと二十年後にはもうできなくなっているか、この世にいないかもしれない。
そして、お寺はあいかわらずそこにはあるだろうけど、人も来ないで、サビサビになっているかもしれない。参道の商店街は消滅しそうでした。
観光地も、外国人が支えているけれど、外国人の来なくなった観光地には未来がないのかもしれません。ああ、ビックリ。こんなになっているんですね。二十年後の長谷寺、どうなっているかなあ。