芭蕉さんと一緒に宮城県の多賀城に行った気分でいました。
そこで、芭蕉さんの記述に間違いがあるというのを本で見てしまいました。実際には聖武天皇さまはもう引退されているのに、「聖武天皇の御時だった」なんて書いてあったんでした。芭蕉さんが典拠としたものにあやまりがあったのだと思うんですが、それは何であったのか。芭蕉さんたちはどんな歴史教育を受けてきたんだろう。基本的な教養って何だったんだろうと疑問に思ったんでした。
江戸時代は、文化の時代でもあったので、いろんな人が歴史について本を書いただろうし、基本的な教養としての歴史をどんな形で学んだのか、少し知りたくはなりました。世界史は、ヨーロッパなんて関係ないんだから、中国史が世界史の教養だったはずです。となると、『十八史略』は外せなかったでしょう。
それで、日本史は、どんな本で学んだんだろうな。それは興味があります。
あれ、江戸時代といえば、水戸藩で日本の体系的な歴史というのを作ろうという動きがあったのは知っています。それが具体的にどんなものだったのか、それはあまり知らなくて、やがて尊王攘夷につながるんだから、よほど天皇中心的な歴史の記述があるのだとは思うんですが、残念ながら、具体的に読んだことがありません。
あまりに膨大であり、あまりに読みにくい作品集なのかなという気がするんですけど、実際はどうなのかな。まあ、それがあるというのは大きな安心感といえますが、せっかく作ったのに一部の人しか見られないなんて、何だかもったいないです(読みたいけど、全部は読みたくないし、なるべく簡単に全体を見たいだなんて、欲張りで、結局は何にもわかってないのかもしれません)。
歴史は専門的になるのは仕方がないのかもしれない。でも、根幹は開かれていてほしいと思うのです。
何が言いたいのかというと、模範とするのは中国なんですけど、いくつもの国が興り、やがて滅びて、その度に正式の歴史書というのを客観的かつ包括的に、しかも細部の物語・エヒソードも漏らさないという、歴史というのを本という形でとにかく残すのだという強い意志を持って何度も、延々と続けてきた国があったという事実です。
おかげさまで、卑弥呼さんのことも、金印のことも、聖徳太子のトンチンカンなことも、すべて記録されてきました。そういうのを専門に、絶対に今のこの世を正確に伝えようという信念のある人々がいました。
その代表的な『史記』を書いた司馬遷さんでした。淡々と歴史を記述したことになっていますが、彼はどんなことがあっても、記録せずにはいられない人でした。皇帝のご機嫌を悪くしてしまい、宮刑に処せられても、自らの仕事のために男でなくなった男として生きる屈辱にも耐えました。すべて歴史を記録せずにはおられないという情熱のためでした。
そうした何代にもわたる歴史を記述すること、日本も古代には取り組んだことがありましたけど、最近はどうなんだろう。お金と人材と時間をかけて、歴史を記述していこうという動きはありましたか?
残念ながら、江戸の水戸藩以降は、ちゃんとした歴史・記録を残していこうとしたことがないような気がするんです。
だから、日本政府の力で、何もかもを記録した戦争突入から敗戦に至るまでのすべてを網羅したものを作ろうとしたこと、そんなのはどこかの研究機関任せで、まともに取り組んだことはありませんでした。戦後の1945年から後の日本のこともどれくらいちゃんと振り返っているのか、とても不安です。
いろんな自らの過去に、何十年後からの解明への動きがあったら、積極的に取り組んでほしいし、どのような政策決定のプロセスがあったのか、政治家のみなさんには耳が痛いことがあるだろうけど、自分たちのことではないのだから、過去の政治家たちの秘密は暴いてもいいんじゃないのか、それらは時効になっているから、世間に公表されてもいいのではないか、と思うのです。
と書いたけど、日本は欧米とは違うルールで動いている国なので、何十年が過ぎても、秘密を隠し通すだろうし、闇に葬られることがたくさんあるのだと思うのです。
つい数年前のできごとを解明する証拠を持っていた人が、それらを闇に葬る役割を与えられ、苦しさのために亡くなってしまったこともあったんですから、どんな事実でも隠し通すことが美学というのか、あたり前というのか、事実は解明されないのが当たり前、そういう国に私たちはいるんだと思います。
芭蕉さんは、はっきりわからないままに、千年前の奈良時代を回想してみた。すべては目の前の壺のいしぶみを引き立てるためでした。そんなに聖武天皇に興味があったとは思えないのです。ただ、風景を盛り上げるため、その雰囲気作りで間違ったことを書いてしまった。
それで、江戸時代は、歴史って、そんなにみんな好きではなかったというか、知るための材料がそんなにあるわけではなかったのだなと思った、というオチでした。失礼しました。