昨日、雷雨がお昼ごろ通り過ぎていきました。アプリを持っている人たちが、「今はこんな状態の雲が私たちの上にいます」というのを見せてくれました。
確かに、光ってから間を置かずにゴロゴロと鳴って、「あらまあ、落ちるんじゃないかな」というくらいの勢いでした。
そんなこと、今までにあったかなと振り返ってみると、中学2年のある日、空がにわかにかき曇り、激しい雷雨と雷鳴が鳴り響いて、校舎の高いところを見上げて、「あそこに落ちるの見たいな」と無邪気におびえていたのを思い出しました。
福岡の柳川で体験した雷雨も怖かったけれど、あの時は彼女と二人で、お寺で勝手に雨宿りしたのが楽しい思い出でしたっけ。その後も、駅に向かって町歩きをつづけましたからね。逆にしっとりして涼しくなったような感じもします。
もっと何回も経験したはずなのに、記憶しているのはそれくらいかな。それを越えると、とんでもない台風とか、雨戸がなくてガラス窓が割れそうな台風を一度だけ経験した時と、いろいろ経験はするのに、思い出と結びつかないとすぐに忘れてしまいますね。
昨日の雷雨もすごかったけれど、たぶん、すぐに忘れてしまうでしょう。ずっと室内から見ているだけだったし、強烈な思い出もなかったから、まあ、それはそれでいいのかな。
しばらくしたら太陽が出て、夕方はほんの少し夕焼けみたいにもなってました。それだけです。
近ごろ、空の写真しか撮っていないようです。
撮らないでいいのなら、撮らなくていいんだけど、何か撮りたいなというものがあまりない毎日が続いています。
空を見上げるのは、どこかに行きたいという気持ちの現われなんだろうか。それもあるかもしれません。近ごろはどこかに行くというのを半分忘れています。どういうタイミングで行くのか、そのきっかけもないですから。
そんな中で見かける雲がたくさんある風景は、モノクロで撮ると、陰影が感じられて、空の陰影の中に何かを感じたい、何かがある、というところなのかな。何だか人恋しい感じなんでしょうか。
真っ青な空も、吸い込まれていきそうで、それはまた別の魅力があります。
たくさんの雲、水滴の集まりは、水の惑星の住む私たちが見上げることのできるぜいたくでしたよ。
夕方は一瞬ごとに光が変化するし、本当なら、歩きながら、そういうのを撮りたいんですけど、いざ街を歩いてみると、空をいい角度で見られるところが意外となくて、せっかくそういうところにたどり着いたら、もう光が弱くなってたり、暗いだけだったり、思うような感じになっていないようです。
生意気なことを書いてますけど、私のカメラはそんなに万能ではないので、すぐ「こんなのイヤだ」と文句を言うし、「ピントなんか合わせてやらないよ」とご機嫌を損ねることもよくあるから、たまたま撮れた写真で満足するしかないようです。
そういう付き合い方で、空にあふれる雲に向き合っています。「ああ、いいなあ。この解放感。この道の向こうというのを伝えたい」と、撮りたい景色はたくさんありますが、たいていはまともに撮れないし、カメラはいうことはきかないし、そこにカメラもなしで、ただ見とれる場合もあるし、なかなか切り取りたいものは、手に入りません。
いつものことながら、私が手にするものは、私が見ているもののほんの一部だし、せっかく手に入れたって、その素晴らしさも見つけられないことだってあります。
たくさんの見落とし、見逃し、チャンスを失うなどの末に、今の私はいます。そして、これからもそうでしょう。
今あるものを大事にして、これからの出会いも大事にしたいです。気持ちとしては100%そうなんです。でも、そうはいかないこともある。
たくさんの雲があります。それを見上げて、何か楽しいこと見つけられるでしょうか。ぜひ、見つけていきたい。これからも、ボチボチやっていきます。