いつごろからか、最近ずっと三島由紀夫さんのこと、気になっていたんです。テレビはほとんど見ないから、テレビではないはずだから、たぶん、新聞かな。新聞で三島さんのことに触れてる記事があって、「そうだ、もう五十年経ってしまったんだ」というのを感じて、慌ててあれこれ書こうとしていたんでした。
地元のささやかな古本市で、中島らもさんの本を見つけて、今でもうちに二冊は残ってたんですけど、そうだ、らもさんの本を買っておかなきゃと、買った本が、集英社文庫の「恋は底ぢから」(単行本は1987年)という本でした。
その中に、こんな文章を見つけました。
美輪明宏のホモセクシァリティの、あの見事なまでの小ぎれいさというのが、反・女性的清潔さ、言いかえれば理想的女性への追求の代表的な例ではないだろうか。
超絶的な努力、美学、洗練へのベクトル、知性。根本的に女でないものが、女になろうとするときの修行には、すさまじいまでの真摯さがある。
美輪明宏は、遊郭に生まれて、女の集団の中で育った。それはつまり、女性に対する幻想という点では、この世で一番絶望的な環境だったにちがいない。
女性的なものを突き詰めていくと、どんどん女性的でないものが研ぎ澄まされてきたということでしょうか。美輪明宏さんって、そういう風に理想の女性像を作り上げてきた人なんでしょうか。知らなかった。ただの変なオッサンかと思ってました。
三島由紀夫さんと関係ないですよ。らもさん、これからどういう展開?
寝そべっておかきをかじっている女、太ももをボリボリかく音、即物的な猥談、ナプキンの貸し借り。なま身そのものの女たち。装う前の「いい匂い」のしない女たち。
涼やかな幻想というのは、まさにそういった熱苦しい現実の中から生まれてくる。
美輪明宏は、自分の幻想に同化するために、苦行に近い努力をしたにちがいない。
改めて、美輪明宏さんという人を見直した気がします。もう三十年以上前にらもさんが書いてくれてたらしいのです。
三島さんは、美輪さんとの関係で語られるようです。
彼(美輪さん)の欲望の対象が、三島由紀夫だったというのは、当然すぎて面白みに欠けるほどだ。
なぜなら、三島もまた自己を幻想と同化させることに命を張った存在であったからだ。
そんな両者の間に成り立ちうる欲望というのは、そのあり様自体が幻想でしか成立し得ないだろう。
幻想という「天空」を、永遠に届くことのない二つの眼差しがふりあおいでいる。
哀しくて崇高な「聖三角形」。
何となく、載せられて三島さん気分になってたボクは、らもさんの恋愛話に時に驚き、時にずっこけながら、半分くらい読みましたけど、幻想も何もない、ダラリとした日常しかなくて、淋しいんですけど、でも、好きであったのは確かで、そういう世界もあるのだ、かつてはそういうのをチラ見したという気分でした。
でも、もうそうした感覚も遠くなって、はるか遠くに見ている感じかな。
でも、人の生き方として、そういう生もあるのだ、それはどうして? と、ずっと思っていたい気分ではあるんです。
何書いてるのか、わかりませんね。
三島由紀夫さんという人が、五十年前に自決した。それはボクみたいな、スットボケ野郎には分からないことではあった。
それから後、たくさんの人たちが三島さんに近づこうとした。それでも謎は残ったままで、たぶん、ずっとわからないままでしょう。
美輪明宏さんは今も健在で、時々はメディアに出てたりされてるんでしょう。美輪さんが三島さんを語っているのを、チラッと見たこともある気がしますが、それでも私には分かりませんでした。
何もわかってない私は、いつまでもその周辺をうろつくだけで、ぼんやり時間の流れを見ているんだろうな。