松はよく海水浴場にありました。三大松原の気比の松原、ここには小学校の頃一度だけ行きました。ご近所の人が引っ越して、そこに遊びに行かせてもらって、海水浴もしたようです。ちゃんと海で泳いだという記憶はないけど、「ガメラ対ジグラ」という映画は見たはずです。
そのご家族と仲良くさせてもらってたんでした。どちらかというと、親たちが仲良くしていて、子どもたちはまあオマケで仲良くしてたのかな。その敦賀にお引越ししたご家族には女の子と弟さんがいて、女の子は私より二つ年下だったと思います。三つの家族で仲良くしていたのに、女の子のおうちだけがポンと敦賀に転居して、そこへわざわざ仲良し大阪から二家族で訪ねていって(もちろん電車で!)、何を食べたんだったかなあ。昔は、バーベキユーみたいなお決まりのコースもないし、回転ずしもないし、松林越しに海を見ただけだったかも。
そう、その家族ぐるみのお付き合いのおうちのお父さんは、造船関係のお仕事をされてて、それで敦賀に転勤だったのかなあ。冬に母たちはお引越しの手伝いに行き、夏には子どもたちも訪ねていったなんて、遠い昔のおとぎ話みたいでした。
私に、敦賀に行った女の子に未練でもあれば、手紙でも書いたのかもしれないけど、すぐに日常の生活の中で忘れてしまって、親たちは年賀状のやり取りをしていたみたいだけど、次第に疎遠になっていったみたいでした。
そんなに意味もなく敦賀に行くわけにもいかないし、みんな忙しかったんだろうな。
うちの実家って、大阪の海沿いの町で、川にはたくさんの造船所みたいなのがありました。たぶん、どこかの会社にお勤めされてたんだと思います。
土佐から都に帰ろうとしていた紀貫之が、やっと関西の地に戻ってきたのは、うちの実家のあたりでした。ここからは海賊もいないし、風も気にしなくていいし、着実に川を遡れば、懐かしい都に帰り着ける。貫之さんは感動したでしょう。
その関西の取っ掛かりがうちの実家のあたりで、昔は川沿いに千本の松があったそうです。
その名残りで、いまも「千本松渡し」というのが残されていて、今だったら、三重県からクルマで帰って来る時にここの橋を渡って、やっと実家に帰れるんでした。小学校の六年生の頃、担任団のベテランの先生が赴任した時の話をしてくれて、当時はたぶん市電も走ってたと思うんだけど、そのころにはまだ千本松の名残りがあった(1960年ころ?)というから、それを聞く度に、「何だか不思議だよな。今では工場街になってしまっているのに」とか思ったはずでした。
三大松原って、佐賀県の唐津の虹の松原、静岡県の三保の松原、気比の松原の三つで、三保の松原も私は行っています。虹の松原もそのうちに行かなくちゃとか思ってしまう。
なぜ、松原なのか?
それが、昨日、芭蕉さんの旅を見ていて、そういえば、宮城県には運河と松原が見事に組み合わさった風景があったよなと思い出したんでした。
県の中央より少し北に出っ張った塩釜という港がありました。そこは海運の基地になりうる港でした。南北に細長いの宮城県の平野、ここを物資の移動を円滑にするには、海運はダメで、川舟を使って荷物を運びたい。今だったら大きな道を作るところですが、江戸時代の物流は船だっただろうし、そうなると、よそへ運ぶのは海を利用するのがよいけれど、県内の南北の物流を円滑にするため、藩主の伊達政宗さんは運河を計画し、海沿いの50キロくらいの運河を作った。
運河の東側(海側)には松林を作り、海からの風からも守り、川船は南北に移動したことでしょう。
以前NHKの番組で、こんなにすごい土地計画ができる人だったのだと感心し、その運河が今も脈々として使われていることにも驚き、その風景の見事さにも感心したんですけど、そこにも松林があった。
計画した人・伊達政宗さんから名前をもらって「貞山堀(運河)」と呼ばれるものだったそうですが、東日本大震災で被害を受けたようです。でも、きっと町の人に愛されてたら、また復活すると思うんだけど、今年の夏でも見に行きたいんですけど、どうなることかなあ。
★ 2021.4.3は、「ブラタモリ」の2015年の仙台の2回目を再放送していました。たぶん、見たはずだけど、すべて新鮮でした。広瀬川沿いの大きなお屋敷、あれは立派でした。その時にも思ったはずだけど、広瀬川って、ものすごい河岸段丘あるんだなと思いました。上流に行くと、もっと起伏が激しくて、うちのクルマなんて、後ろに下がって行きそうな坂がいくつかあって、ああ、こんな厳しいところを上り下りするんだと、少し怖くなって、さらにインターが入りにくくて、困りましたよねえ。