みなさん、お元気ですか?
同窓会からもう3週間ほど過ぎてしまいました。
10年以上前の「ハイスクールデイズ」を、楽しみにしてくださる人もいるみたいですけど(そんなにいないと思うんですけど)、私はこのブログの中でほとんど書き尽くしてしまっています。
けれども、高校の時の知人からあれこれ、全く知らないことを教わり、指摘されると、そうだったのかと自分の十代が何だか輝かしいものに見えてきて(実際は絶対にショボくれていたんですけど)、少し調子に乗っていたような感じでした。
(自分のダメさは、とことん自覚しているので、分かっているんだけど、でも、何だかいとおしくなります。そんなことも知らないで、十代の自分はアクセクしていたのかと思うと。)
何日か前に、放送局にお勤めの友人に冊子を送りました。彼には、ささやかながらライバル心みたいなものも持ってたんですけど、はるかに及ばなくなってしまって、でも、私にできることもあるのではないかと、?十年ぶりに送ってみたんです。
自分のホームだった大阪を離れ、三十年が過ぎてしまいました。そうすると、阪神タイガースに肩入れしたいと思っても、すぐに気持ちは離れてしまいますし、梅田を歩いていても、知らない街みたいな感じになっています。完全な田舎者です。
それに阪神も阪急も全く違う建物になってしまって、私の取っ掛かりはない気がします。もう、梅田のデパートには私の行きたいところはなくなりました。
ナンバは、しょっちゅう行くので、変わってしまったところもあるんだろうけど、あまり変化は感じません。天王寺は、相変らずの混沌ぶりで、四天王寺さんと近鉄のデパ地下に行くだけで十分な気がします。
大阪は、私の取っ掛かりのない、ツルンとした街になりつつあります。そこをたくさんの外国の人たちが闊歩し、うちの実家でさえ、中国の若いご夫婦と子どもさんが生活しているような、違う街に変わりつつあるようです。
あと三十年したら。そうしたら、私はこの世にいないけれど、大阪は全然違う街になっているでしょう。鉄道やデパート、劇場、病院など、基本的なものはそこにあるかもしれないけれど、実質はものすごく変化していることでしょう。
昔「方丈記」というのを高校の時に読まされて、「つまらないこと書いているなあ」と、ちっとも面白く感じられなかったあの事柄は、長く生きた者の実感だったのだろうな、それを高校生に理解しろなんて、古典教育もムチャなことをしていたものです。オッチャンになってこそ実感できるものなのにねえ。
先日の同窓会の時に、高校1年の時のクラスの冊子『海鳴り』を復活させようぜ、というコメントをもらいましたよね。うれしさ半分、かなしさ半分で聞いてたんですけど……。
しばらくは考えてみました。そして、この年になって、みんなが今語れることをみんなで冊子という形で共有して、いつまで続けられるかわからないけど、原稿さえ集まれば作れるかもしれない、みんなの気持ちが寄り添えられたら、できるかもしれないなと思いました。
年に4回くらい、季節ごとに出して、とりあえず、春ごろに復活第一号、夏ごろに二号と、みんなが書きたい、何か原稿を送りたいし、みんなの原稿を読みたいと思ったら、一か所に原稿を寄せて、たくさんになったら形にして出すということができたら、それはなかなかステキではないですか!
それから、高校の時にはやれていなかった短歌や俳句にも、みんながチャレンジしてもらえたらと、構想はふくらんでいきます。
年に何回かは編集会議をしたり、句会をしたり、吟行したり、年齢に合わせたオトナの遊び方ができないかなと思いました。私たちは、そろそろ自分の歩いてきた道をチラッと振り返ってもいい時期に来ている気がします。
ブログでひとりで反省するのもいいのだけれど、みんなと考えを交えることができたら、本当にオトナの新たな遊びが生まれるのではないかなあ。
「海鳴り 2020.3 ふたたび」「2020.7 つながり」「2020.11 家族」「2021.3 季節はめぐる」とか、毎回テーマを決めて原稿を募集できたらと思います。
勝手な(個人的な)思い入ればかり、公のメディアであるブログに書いてしまいました。
さて、私の勝手な妄想は結実するんでしょうか。いつまでも、つづくくらいにたくさんの原稿が集まったら、それはもう嬉しいんだけどなあ。
私は、同級生の人たちに語りかけられる何かを持っているのか? たいしたものは持っていない気がします。つまらないことばかりです。でも、何か聞いてもらいたいことはあるように思います。
それが何かわからないから、毎日写真を撮って、ラジオを聞いて、クルマを走らせて、若い人と話をして、家族とはそんなにしゃべらなくて、家ではお酒ばかり飲んで、夜になったらブログして、何だか決まりきったことをしている。
もう、分からなくなってきたので、今夜も「論語」を開いて、コテッと寝てしまおう!