うちの実家は大阪の大正区というところです。区名は、大正時代に他の陸地とつなげる大正橋ができてから、人が住むようになったでしょうか。いや、人はもっと前から住んでいて、ここに渡るには船で渡るとか、そんなことをしたんでしょうか。
もう五十年以上前の話ですけど、小学校のオジサン先生から、この土地の川のそばにはずっと松林が続いていたんですよ。先生は、この学校に赴任した時に、その松林を見ました。きれいでした。
学年の主任の先生だったと思われますが、私の担任ではなかったけど、地域の歴史という特別のお話で聞かせてもらったんだった。普段は少し怖い感じの先生ではあったけれど、赴任されたときのころの私の町って、そんな水辺の、千本松といわれるくらいの、牧歌的な町ではありました。先生も、その頃のことを思うと、ついつい懐かしい感じになったんでしょう。
私が小学生の頃、まだ埋め立てが進んでいない土地もありました。低湿地のスラムみたいなところに、沖縄から移住してきた人たちが集落を作っているところもあったんです。それらを整理して、もう少し海抜の高いところに住んでもらうようにしていた。
70年代の初め、私たちの町は、自分の町のフォーマットづくりの真っ最中でした。それから何十年も経過して、私は町を出てしまい、母と弟たちだけが住んでいます。区の人口は減り続け、大阪市の中のへこんだ土地として政治的にも行政サービス的にも放置されている町になっています。
愛着はあるのだけれど、そこにいざ住みなさいと言われたら、狭苦しくて、夏は猛烈に暑くて、風は吹かなくて、お店はどんどんなくなっていくし、商店街も滅びてしまったし、こんなに政治によって町が窒息させられているのを見ているのは、何となく辛い感じです。
どうして町の人は何も言わないのか? どうして行政はホッタラカシなのか? わからなくなります。メタンガスの噴出する陸地とも言えないところに万博を強行するのに、町が消えそうになっている限界(までは行ってないけど)都市に何のテコ入れもしない政治って、何なんだろうと思ってしまう。
大阪って、別に今の政治が悪いだけではなくて、昔からいいとこどり、いいかっこしい、目立つとこだけは立派というのか、そんな政治が行われてきた感じです。まんべんなく、すべてが平等に発展するように施策する、ということがなかったのかもしれない。
そんなこんなだけど、近所の渡船は無料で向こう岸に渡してくれるし、15分ごとに船は出るし、川を渡る風はどんなに暑くても何だか心地いいし、私はチャンスがあるたびに見に行きます。
母は「あんたも好きやねエ」なんて言いながら、たまに一緒に見に行ったりします。
そこには、運転士の人たちの詰め所があって、独特の雰囲気の職員さんたちがいるんですが、最近は女性の職員さんがいて、運転するところは見ていないけど、お客さんの案内とか、船の発進のときなど、桟橋からうまく船を引き離す担当もしているようでした。
彼女たち(何人か採用されているでしょう)が、大阪市の渡船を支えてくれているし、新しい風になってくれるでしょう。それを期待して、また実家に帰ったら、見に行きたいと思います。