ラジオのお仕事をしている友人がいます。自分の好きな曲を毎週あれこれとかき集めたり、リクエストをもらったりしながら、彼の思い入れやエピソードを配合して、深夜の人気番組を作っているようです。
その彼から、突然メールが来て(LINE)、「木山捷平って、どんな人?」ということでした。
岡山出身で、詩も書いたけれど、小説もたくさん書いたそうで、旺文社文庫というところから四冊も出ていたらしいです。1977年にドーンと旺文社さんは出してくれてたんですね。そのうちに、旺文社文庫さんはなくなって、講談社文芸文庫が引き継いでくれたみたいで、90年代に数冊出してくれたみたいでした。
それら、すべて買わないで、1996年に全詩集ということで出たもの、これを買いました。私が見たかったのは、小学校の時に読んだ「遠景」という詩でした。
あまりみんなから愛されている詩ではないみたいなんですけど、どういうわけか、国語の教科書に収載されていた。編集者さんの好みだったんでしょうか。
他の詩は、ほとんど読んでなくて、うちの書棚でホコリをかぶらされていて、いつか手に取られるだろうって待機してくれて、友人からのメールで久しぶりに取り出してみたわけでした。
友人には、とりあえず、「遠景」をオススメして、土俗的というのか、ワイルドというのか、不思議な詩人ではある、というのはお伝えしました。
友人は、音楽の方面からのアプローチで、彼がオンエアしようとした高田渡さんが、木山捷平さんの詩に曲をつけて歌った詩が気になってたようでした。
赤い着物を着た親子
長屋の路地に
今日も飴売りがやって来た。
赤い着物をきた
親らしいのと
子らしいのと。
親が太鼓をたたくと
子供がをどった。
だけど
飴は一つも売れなんだ。
そいで又
二人は
向こうの路地へはいって行った。(1930)
こういう内容の詩を、どんなふうに高田さんは歌ったのか、それは聴いてみないと分からないのだけれど、詩は読み方とか、声に出してみるとか、誰かが演じてくれるとか、誰かが心から吐き出してくれたら、ことば以上のものが生まれるから、魅力的なものになっているんでしょうか。
もう十年も昔、高田渡さんが陽水さんと一緒にテレビとか出ていて、実際に歌っていて、こりゃ、なかなか面白いなあと、高田さんの「バーボン・ストリート・ブルース」(ちくま文庫 2008)も、CDも買ったんですよ。
でも、テレビでおもしろかった歌が、CDではすぐにスキップしたくなるし、私はちゃんと聴けなかった。本は読んだけど、あまり残らなかった。
そして今、そうした高田渡さんと木山捷平さんをつなげてくれる友人がいた。
詩の中の親子は、お金にならない仕事を延々と繰り返しているらしいのです。それで暮らしが成り立っているのか、お父さんは他にもお仕事があるのか、分からないんですけど、あちらこちら巡回しながら、少しだけ儲けたり、親子の音楽を楽しんでくれたりする人に出会ったりしたのかなと思います。
こうした旅芸人の悲哀って、本人たちは大変なんだけど、憧れはあります。
どっぷりと仕事と日常に縛られている私なんて、旅芸人の何もわかってないんですけど、そうした人々がいた日本の風景、そういう人たちが何とか暮らしていけた世界、今とは違うと思うんだけど、そういう人々の空間に憧れはあります。たぶん、厳しくて、私なんてすぐ破門のはずですけど……。私って、音楽ができないんですもんね。