最近ずっと倉橋由美子さんに小説とは何か、というのを聞かせてもらっています(「あたりまえのこと」2001 朝日新聞社)。
そもそも小説の楽しみとは何であるのか? それはもう、おもしろい、ということではないのか、と思うのですが、その「おもしろい」とはどういうことか、それを倉橋さんは書いておられました。
小説の面白さとは、音楽を聴いて面白いと思うのとだいたい同じなのだ、ということでした。まあ、人の楽しみですから、似てはいますね。
とくに小説の場合、読者の脳の中に言葉に反応して「擬似現実」がつくりだされ、それが脳を楽しませるのだと思われます。
確かに、脳が求めているのかもしれない。
小説にAという人物が出てくれば、これは頭の中では自分のまわりに実際にいる人間と同格の存在となり、この人物が次にどうするだろうかと、その言動を興味をもって見守り、時には感情移入して一喜一憂し、またその言動に賛成したり反対したりします。
登場人物と一緒に本の中の物語を味わえるようになったら、私たちはその小説を楽しめているということになりますね。どうでもよかったら、投げ出すかもしれないし、読書そのものが停滞するかもしれない。
人間は何よりも人間に興味を抱く動物です。小説とは、言葉を使って架空の人間をつくり、動かしてみせることで人間を楽しませる術なのです。なぜそんな面倒なことをするのかといわれれば、それは生きた人間と付き合って楽しむことがむずかしいために架空の人間に付き合って楽しむことを求めるのだというほかはありません。
人間に興味があるくせに、生身の人間と触れ合うのは面倒だという矛盾を解消するのが小説なんですね。確かに、本を開いたら、そこに相手はいるし、いつでもこっちのペースで付き合うことが可能ですもんね。
(人との付き合いを小説で味わいたいという)楽しみを求める人がいれば、求めに応じてそれを提供しようという人が出てくるもので、紫式部も、道長をはじめ、光源氏の物語を読みたいという人たちがまわりにいたためにあの物語を書いて読ませたのです。
需要と供給がピタリとが合致したときに、物語は紡ぎ出されてくる。そういうしくみがあるのですね。それは何となくわかります。せっかく書いても、読んでくれる人がいないのでは、それはすぐに立ち消えになってしまうでしょう。
こういう持ちつ持たれつの関係から、小説というのは生まれる。小説家は、それでお金を儲ける・生活をしていく、ということになるわけで、読者が忘れてしまったら、小説も小説家も、時代のかなたに消えてしまう。どんなに文学的意義を説かれても、そんな面倒なものは大抵の人は必要ないし、今を生きる人間には、今ある人々との共感がなければ、意味がなくなってしまう。
だから、古典といわれるものも、ちゃんと現代性・現代的意義が必要になるのでしょう。作者は、別にそれでうれしいわけじゃないけど、たくさんの人に愛されていたら、それは読者たちの宝物となるんでしょうね。