中村健之介さんの『ドストエフスキーのおもしろさ』(岩波ジュニア新書)からの古いメモです。でも、この混沌とした世界に、ドストエフスキーを開いて、何か見つかればいいんだけど、私にはハードルが高くて、薄いの一冊読んだだけでしたね。
この『未成年』はトルストイの小説『戦争と平和』に対抗して書かれた作品です。
「トルトイ伯の描いた貴族は、見事な秩序の担い手だ。彼らは誇りをもって自らの使命に殉じている。彼らは支配者たる資格を具えている。だが、それはもう歴史絵巻なのだ。枯れはてた花だ。私はそれに羨ましさは感じるけれど、私自身はあの手の時代物をこしらえる気にはならない」とドストエフスキーは「ノート」で洩らしています。〈中村健之介『ドストエフスキーのおもしろさ』より〉
「トルトイ伯の描いた貴族は、見事な秩序の担い手だ。彼らは誇りをもって自らの使命に殉じている。彼らは支配者たる資格を具えている。だが、それはもう歴史絵巻なのだ。枯れはてた花だ。私はそれに羨ましさは感じるけれど、私自身はあの手の時代物をこしらえる気にはならない」とドストエフスキーは「ノート」で洩らしています。〈中村健之介『ドストエフスキーのおもしろさ』より〉
確かに、トルストイさん、この人も私は挫折しまくりで、ちゃんと読めてないけど、映画とかなら、見ましたよ。それもすごい昔だけど。
トルストイさんの描く世界は、貴族的ではあったのかな。ドストエフスキーさんは、もっとふつうの人を描きたかった、ということなんでしょうか。それとも、生と死をストレートに見つめる物語を描きたかったのか、どうなんだろう。
(『カラマーゾフの兄弟』の)イワンの叙事詩は、一六世紀のスペインの町セヴィリアにキリストが現われる、という卓抜な設定です。群衆はそれがキリストであることに気づいてとりかこみ、なつかしい敬愛のあまり涙を流してひざまずきます。
(『カラマーゾフの兄弟』の)イワンの叙事詩は、一六世紀のスペインの町セヴィリアにキリストが現われる、という卓抜な設定です。群衆はそれがキリストであることに気づいてとりかこみ、なつかしい敬愛のあまり涙を流してひざまずきます。
その光景を見た教会の異端審問裁判長すなわち大審問官は、兵に命じてキリストを捕えさえ牢に入れます。夜がふけて、ひとりでその牢へやってきた大審問官は、およそつぎのような考えを語ります。
そういうエピソードがあるんですね。それから?
キリストよ、おまえは、人間が自発的に神を信じるようになることを願ってかれらに自由を与えた。おまえ(は?)、パンを与えれば人びとがおまえにつき随ってくることを知っていたが、それを望まなかった。あくまで自由な心の信仰を望んだのだ。
しかし、実は、人間にとって自由くらい手にあまる贈り物はないのだ。人びとは一つの群れになりたがり、支配してくれる者を求め、みずから自由をその支配者に差し出して、「わたしたちを奴隷にしてパンを与えてください」とひれふさずにはいられないのだ。そこでわれわれ少数の選ばれた者が、かれら大多数の人間の自由をあずかり、方針決定と管理責任の大任を引き受け。安心と幸福を与えてやるのだ。
最近も、こういう理屈を嫌というほど聞かされている気がします。人々というのはバカで、自由のはき違えをして、まともな行動がとれない。やつらの無軌道を放任するわけにはいかず、すべて少数のもので管理していく。そういう理屈で世界は進んでいます。たぶん、これからも。
これは、かよわい大衆を憐れんで行なっている事業なのだ。だからキリストよ、おまえはここを去れ、おまえはわれわれが管理する人類の幸福には邪魔なのだ。――終始無言のキリストにむかって、老齢の大審問官はこう語って、牢獄の扉を開けてやります。
イワンのこの大審問官の考えは、好むと好まざるとにかかわらず、集団統治の考え方としてたしかにあらゆる時代に通用する普遍的な真実をふくんでいます。現代の大審問官は、為政者をふくむ少数の情報操作者たちであるのかもしれません。〈中村健之介『ドストエフスキーのおもしろさ』より〉
『カラマーゾフの兄弟』、すごく部厚くて、人間もたくさん出てきて、人間関係図を作らないと読めないという話ですが、チャレンジしたことはありませんでした。でも、すでに現代社会の縮図というのか、種明かしみたいなのがされてるようです。読んでみたいけど、なかなかできないです。この夏、チャレンジしてみるかな?
『カラマーゾフの兄弟』、すごく部厚くて、人間もたくさん出てきて、人間関係図を作らないと読めないという話ですが、チャレンジしたことはありませんでした。でも、すでに現代社会の縮図というのか、種明かしみたいなのがされてるようです。読んでみたいけど、なかなかできないです。この夏、チャレンジしてみるかな?