今、世の中では少しだけ東京国立博物ブームになっています。考えてみると、私が上野のお山に行かせてもらう時は、美術館がメインであり、博物館には行ったことがありませんでした。
残念ながら、そうみたいで、奈良の仏像さんが東京に出て行って大ブレークというのも、新聞では見たりしたけれど、「そんなの奈良ではいつでも見られるじゃないの! 東京の人は奈良の仏様が珍しいんだな」なんて思ってましたっけ。……本当は、奈良でも簡単には見られない仏様だったりするはずですけど……(光背を外したり、360度自由だったりするお姿を拝ませてほしいという気持ちもあったんでした)。
それで、先日(かなり昔)、奈良の法隆寺に行かせてもらって、百済観音さんに久しぶりに拝ませてもらい、考えたことをメモすることにします。
最初っから、ウィキの引用です。
法隆寺の記録と伝来・旧蔵説
法隆寺の根本史料である天平19年(747年)の『法隆寺資財帳』には百済観音に相当する仏像についての記載はない。
11世紀後半成立の『金堂日記』には、当時法隆寺金堂内にあった仏像に関する詳細な記録があるが、ここにも百済観音に関する言及はない。鎌倉時代の法隆寺の僧・顕真による『聖徳太子伝私記』は像名を記しては百済観音には触れていない。
今回は、法隆寺駅からお寺に着くまで、まっすぐ北をめざさずに、西の方へずっとずれて歩いて、藤の木古墳の集落あたりに出てこれたらいいなとでたらめに歩いていたので、お寺に着いた時にはくたびれていました。
中の仏様に対しても、ただ平安と無事をお願いするばかりで、ジロジロと仏様を拝むことがありませんでした。小学校の遠足か、修学旅行か、そういう子どもたちがたくさんいました。
三重県の小学校では、関西への一泊旅行というのがよくあるパターンですから、そういう子らかもしれませんでした。
金堂には、釈迦三尊像と壁画、若者たちはどんな気持ちで見あげたことでしょう。お堂の中は薄暗くて、美術鑑賞というのではないですね。よくわからないけれど、こんな古い仏様をおまつりしている古いお寺が日本にあって、人々はこういうところに自分たちの歴史の起源みたいなのを感じている。
興味はなくても、聖徳太子伝説みたいなのは、伝わっていて、古いお札には出ているらしい、みたいなことを見させられるんですね。どれだけ興味を感じられるんだろう。仏様がキャラになって、動きながら話しかけてくれたら、少しは親近感が増すんだろうか。まさか、法隆寺の中でポケモン探しなんて、そんなのしてもらっても困るし、みんなと古いお寺に行ったという事実だけあればいいんでしょうね。
そして、次は新宝蔵でした。そこに百済観音様がおられるんです。
百済観音に該当すると思われる像の存在が記録で確認できるのはようやく近世になってからである。元禄11年(1698年)の『法隆寺諸堂仏躰数量記』に「虚空蔵立像 長七尺五分」とあるのが、像高からみて百済観音に当たると推定され、これが百済観音の存在を記録する最古の文献とされている。このため、作風の違いもあり、造像当初から法隆寺にあったものではなく、後世、他の寺院から移されたものとの説がある。いつ、どこの寺院から、いかなる事情により移されたかについては諸説あるが、正確なことは不明である。
『法隆寺諸堂仏躰数量記』はこの「虚空蔵菩薩像」を「百済国から渡来した天竺(インド)製の像である」としている。延享3年(1746年)、法隆寺の僧・良訓(りょうきん)が著した『古今一陽集』にも「虚空蔵菩薩」とあり、「この像の由来は古記にはないが、古老の伝えるところでは異国将来の像である」と述べていて、当時すでにこの像の由来は不明であったことがわかる。この像の旧所在については飛鳥の橘寺からの移送とする説。
百済観音様は、日本で作られた仏様ではなくて、朝鮮半島で作られたものを搬送して、わざわざ(たまたま)法隆寺に配置した可能性がある、ということでした。
確かなことは何にもわからない、謎の仏様ということになるようです。
15、6世紀に荒廃した法隆寺に、斑鳩の移設前の中宮寺から、相当数の寺宝が法隆寺に移された(良訓『古今一陽集』)そのうちの1つと推定する高田良信(法隆寺208世管主)の説、などがある。だが、いずれも確証はなく、本像がいつ、どこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されていたものか、正確なことは全く不明である。
千何百年の歴史のあるお寺なので、分からないことだらけだし、そもそも最初の法隆寺だって、ちゃんと発掘されてないのだから、今あるお寺と仏様とわかっていることを手掛かりにして、お寺を感じさせてもらうしかないのであります。
百済観音様は、金堂の中にポツンと置かれていたこともあったそうです。そして、「虚空蔵菩薩」という呼び名が付いていた時もあったそうです。それくらい、この仏様が伝わって来た由来がはっきりしなくて、今はこの百済観音さまのお堂の中におられるけれど、ミステリアスなまま、不思議で、どこか悲しげな、でも優しいような仏様で、私みたいなオッサンも迎えてくださっている。
1 永遠のくだらかんのん秋の空
2 悲しみは人の世に満ち繰り返され逃げまどう人ふるさと探す人
3 秋の日の小学生らの立ち姿