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骨 中原中也
ホラホラ、これが僕の骨だ。
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、
しらじらと雨に洗われ
スックと出た、骨の尖(さき)。
それは光沢(こうたく)もない、
ただいたずらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分(いくぶん)空を反映する。
どうして骨が見えた詩を書いたのか? そりゃ、自分の死というのを突き放して見たかったのだと思われます。
中也さんは若いのです。とても死ぬどころではありません。いや、若いということは、とことん死ぬということが嫌いで、死や骨や霊魂をあざ笑いたくなる時もあったはずです。
そいでもって、そんなの何でもないさ。どうせ人間は死ぬんだし、私だって、簡単に自らの死んだ姿を想像できてしまうよと、若さの剛毅さを示したくもなったでしょう。
そんなの何でもないことさ。言葉にして表現したら、すでに死や骨など乗り越えたも同じさ、そう思いたくなります。
生きていた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐っていたこともある、
みつばのおしたしを食ったこともある、
と思えばなんとも可笑(おか)しい。
ホラホラ、これが僕の骨……
見ているのは僕? 可笑(おか)しなことだ。
霊魂はあとに残って、
また骨の処(ところ)にやって来て、
見ているのかしら?
さてと、霊魂が飛びぬけて、自分の死んだ肉体を見つめる場面も書きました。おもしろおかしく書きました。
わざとふざけた感じで書いて、自分の骨を見つめています。改めて、自分が死んだらどうなるのか、火葬にしたら、誰かが骨を拾わなくてはならない。
それは悲しいことだけど、何でもないカルシウムのかけらになってしまうのも、それはそれで仕方のないことと割り切れたら、少し強くなれますね。死なんて、何ともないと言えそうな気がする。
多少、虚勢が入っていても、怖いんだから、許してあげてください。
故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立って
見ているのは、……僕?
ちょうど立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがっている。
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四十数年前に買った角川文庫の中原中也詩集。この年になって、やっとおもしろいと思えるようになりました。中学・高校・大学・二十代から四十代まで、ちっともおもしろくなかった。
それが、この年になって、ヒョイヒョイ心の中に入ってくれるから、不思議です。
こんなオッサンになって、中也さんの何に触れた気分なんだろう。とにかく、ことばのリズムがステキです。中身はたいしたことはないのかもしれないけど、この積み重なったことばたちの世界、これにあこがれてしまいます。
ただことばが並んでいるだけなのに、何だか気になるのです。