甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

どうして骨が見えたんだろう? ね、中也さん!

2019年05月17日 22時02分13秒 | 一詩一日 できれば毎日?

   骨    中原中也

ホラホラ、これが僕の骨だ。
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、
しらじらと雨に洗われ
スックと出た、骨の尖(さき)。

それは光沢(こうたく)もない、
ただいたずらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分(いくぶん)空を反映する。

 どうして骨が見えた詩を書いたのか? そりゃ、自分の死というのを突き放して見たかったのだと思われます。

 中也さんは若いのです。とても死ぬどころではありません。いや、若いということは、とことん死ぬということが嫌いで、死や骨や霊魂をあざ笑いたくなる時もあったはずです。

 そいでもって、そんなの何でもないさ。どうせ人間は死ぬんだし、私だって、簡単に自らの死んだ姿を想像できてしまうよと、若さの剛毅さを示したくもなったでしょう。

 そんなの何でもないことさ。言葉にして表現したら、すでに死や骨など乗り越えたも同じさ、そう思いたくなります。

生きていた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐っていたこともある、
みつばのおしたしを食ったこともある、
と思えばなんとも可笑(おか)しい。

ホラホラ、これが僕の骨……
見ているのは僕? 可笑(おか)しなことだ。
霊魂はあとに残って、
また骨の処(ところ)にやって来て、
見ているのかしら?

 さてと、霊魂が飛びぬけて、自分の死んだ肉体を見つめる場面も書きました。おもしろおかしく書きました。

 わざとふざけた感じで書いて、自分の骨を見つめています。改めて、自分が死んだらどうなるのか、火葬にしたら、誰かが骨を拾わなくてはならない。

 それは悲しいことだけど、何でもないカルシウムのかけらになってしまうのも、それはそれで仕方のないことと割り切れたら、少し強くなれますね。死なんて、何ともないと言えそうな気がする。

 多少、虚勢が入っていても、怖いんだから、許してあげてください。

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立って
見ているのは、……僕?
ちょうど立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがっている。


 四十数年前に買った角川文庫の中原中也詩集。この年になって、やっとおもしろいと思えるようになりました。中学・高校・大学・二十代から四十代まで、ちっともおもしろくなかった。

 それが、この年になって、ヒョイヒョイ心の中に入ってくれるから、不思議です。

 こんなオッサンになって、中也さんの何に触れた気分なんだろう。とにかく、ことばのリズムがステキです。中身はたいしたことはないのかもしれないけど、この積み重なったことばたちの世界、これにあこがれてしまいます。

 ただことばが並んでいるだけなのに、何だか気になるのです。

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