土日、大阪の実家に行ってきました。とはいっても、用事は特になかったので、新しいうちのクルマとカーナビとはどんなものか、その実験のつもりでサッと行ってサッと帰ってきました。もう少し体調がよければ、電車で行ってあちらこちら歩いたんですけど、それができなくて、ずっとクルマと実家にこもりきりで、なるべく外気に触れないようにしていましたけど、かなりダメージは受けてきました。
というわけで、14時過ぎに家に帰りました。帰りもどこにも寄り道しませんでした。それくらい気力がなかった。
家では、家族がBSで「ふしぎな金縛り」を見ていました。「ステキな」だったかな? とにかく、三谷幸喜さんの監督の映画です。弁護士が深津絵里さん、裁判を戦う相手の検事は中井貴一さん、落ち武者の幽霊は西田敏行さん、裁判を起こしたのは妹をその夫に殺されたという竹内結子さんという配役でした。
深津さんは、幽霊が見えています。だから、西田さんと話ができます。他の人は幽霊が見えないのです。そして、この幽霊が重要な証拠・証言をするというところでドタバタしているところでした。
映画が始まって30分くらい過ぎていたのかもしれない。深津さんは10代でお父さんをなくしていて、お父さんの影を求めて弁護士の世界に飛び込んでいる。お父さんは、チラッと写真で見える雰囲気は草なぎくんみたいで、たぶん、あとで出てくるだろうという気配があります。
裁判シーン以外は、深津さんが幽霊とどんなふうに裁判を戦うのか、作戦を練ったり、壁にぶつかったりしている。そして、深津さんは「お父さんと呼びかけ続けてきたけれど、何も答えてくれなかった。」とぼやいたりしている。
当然、裁判を戦う同志である落ち武者幽霊の西田さんは、「お父さんは、あなたのことを見ているし、いつもそばにいるんだよ。」と慰めなのか、真実なのか、語っている。
そりゃ、本人がいなくなった人を想ったら、いなくなった人はその想いの強弱によって近づいたり離れたりするでしょう。本人が想わなくなったら、いなくなった人はしばらく遠ざかっていくはずです。
深津さんは、裁判で先が見えなくて、困っていた時、ふと、西田さんは、あちらの世界に行って、亡くなった人をひょいと連れてくることができてたから、いっそのこと、殺された奥さんを連れてきてもらったら、真実がわかるではないかと、てっとり早い作戦を思いつきます。
けれども、西田さんは、あまりにたくさんの亡くなった方たちがいるので、探して来れなかったということだけ言い、あちらの世界の管理人(小日向文世さん)に連れて行かれます。
さあ、何もかも行き詰った時、ひょっとして殺されたという奥さんは、死んでいなかったのではないかと気づいて、実は妹が姉さんに成り代わり、姉が殺されたのではないか、真犯人は殺されたという本人で、死んだはずの妹が、姉として姉の夫と夫婦を続けている。姉の夫との不倫をごまかすために、姉を殺し、夫を犯人に仕立てたのだということを証明し、死んだはずの姉の幽霊も呼び出して、見事に裁判は真犯人を幽霊たちのおかげで見つけ出すことになります。
でも、これは禁じ手であり、裁判でいつも死んだはずの幽霊が出てきたら、真実は判明するかもしれないけど、それが本当の真実なのか、それで裁判というものが成立するのか、それは少し問題です。
さて、そういうストーリー紹介はどうでもよくて、すべてが終わった後、あちらの世界に引き戻されたはずの西田さんが、深津さんのお父さんの幽霊(もちろん、草なぎくんでした。髪の毛をペシャンコにさせてました!)を連れて、法廷にひとりたたずむ深津さんの前に現れます。
でも、もうこの時には、深津さんは幽霊が見えない人になっていました。だから、せっかく会いたいというお父さんを目の前にしても、お父さんだと確認することができません。
そこで、裁判でも使われていた、幽霊は風は起こすことができるらしく、イエスの時はハーモニカを1回鳴らし、ノーの時は2回鳴らすというカタチを使って、「お父さん、ここにいるの?」と呼びかけると、ハーモニカが1回鳴るというようにして、対話が成立します。
かくして、娘の深津さんには見えないけれど、でも、心でお父さんを感じる場面がステキな感じで行われます。
そして、想うことによって、そのいなくなった人は感じることができて、それは想う人の思い込みによって実現する、というのは、私たちの世界でたくさん、たくさんあることだったのだと、私は思わされました。
母が、朝の散歩や仏壇にお茶とゴハンを備える時、いつも父に呼びかけています。父はそこにはいなくて、写真と位牌の中の名前と、それくらいしかないけど、母が呼びかける限り父はそこにいる。
室内なので風が吹くことはないけど、母のいる空間の中に、父の気配はあれこれある。それで、私と父の話なんかしていると、母は気持ちが高ぶって、「あんたとお父さんの話をしていると、涙がでるよ。」とかなんとか言っている。
何を自己催眠にかかっているの! と意地悪な気分だとそう見えるかもしれない。
でも、風も吹かないし、奇跡も起こらないし、絶対に姿は現さないけど、その想っている人のまわりには、そのいなくなった人の気配は、すぐに見え隠れするのではないか、母にも私にも見えないけど、あまりにかすかな気配ではあるけど、どこかにあるのではないか、というのを気づかされたんでした。
ドタバタファンタジー喜劇として作られていましたが、幽霊、死後の世界を考える材料は豊富な、今を生きる私たちが、亡くなった人たちとどう付き合うのかを考える、いい映画でした。
金曜日に、兼好さんの恋愛観みたいなのを取り上げました。すべてイメージの中の恋で、リアルな恋は取り上げられていなかった。
結局は、片思いや、失恋こそすべてということか?
いや、そうじゃなくて、恋人が誰かに奪われたとか、好きだった人が亡くなったとか、事情があって遠くに行ってしまった、そういう時こそ、本当の恋というのを感じることができると、述べておられたのだと気づきました。
リアルな愛、現実の彼女、肉体を持つ相手、そういうのは必要ないというか、できれば遠ざかってくれた方がうれしい。
なぜかというと、本当にいいところだけを愛せるし、イヤなところは見えないし、ピュアな気持ちになれる、これを恋をするというのだと、兼好さんは言います。
わかる気もします。でも、鼻水をたらし、だらしなく、いいかげんで、自分のことは何一つできない、生活落伍者の私は、そばにいる奥さんにあれこれ世話を焼いてもらわないと、生きていけません。
私はどれだけ奥さんのことを想っているの? 家に帰る時とか、彼女が遠くにいる時とか、彼女が忙しく何かしている時、ふと、どうしているかな? と思いますよ。
家で一緒に生活している時は恋は要らないな。事情で離れ離れになると、突然恋が復活する、というのでいいんじゃないかな。
そばにいて、「恋だ、愛だ」なんて、私は日本に住んでますから、欧米的にはなれないなあ。