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* 室の八島
ここの名前は、高校の時から知っていました。高校で購入することになった参考書を自学自習して実力テストに備えなければなりませんでした。
というわけで、江戸深川の芭蕉庵、千住宿、草加宿と少しずつ北上しているのは知りました。やがて日光にたどり着き、そこから那須に出て、いよいよ奥州に入っていくというそのままのルートが見えてきていました。
その前に「室の八嶋」が名所として挙げられていたようです。でも、わりとアッサリ通り過ぎていきました。本文もほとんど初めて見たような感じです。
ということは、四十年目にして初めて「室の八嶋」を読むことになるようです。
場所はどこなんでしょう。埼玉県? 栃木県? 何年か前に出かけた鹿沼にはどうして記述がないの? そう思ってしまうのですが、とりあえず栃木県の南西部にあるようですね。
室の八嶋に詣(けい)す。同行(どうぎょう)曾良(そら)が曰(いわ)く、「この神は木の花さくや姫の神と申して、富士一体なり。
下野の国(しもつけ 栃木県)に入りました。街道から少し外れたところにある室の八嶋というお社を参拝することにしました。ここは何といっても、有名な歌枕ではあるし、一度お参りしておこうと考えていた場所でした。
さて、お参りもさることながら、私と一緒に歩くことになった弟子の曽良について書いておかなくてはなりません。
彼は、旅の道連れとしては詳細な記録を残してくれた、本当に役に立ちました。彼もやがて旅から旅というような生活を送ることになり、最終的には長崎の壱岐の島で亡くなるのですから、人生とは不思議なものです。
彼から次のようなことを聞かせてもらいました。
「この神様はこの花咲くや姫さまをおまつりする神様で、富士山ろくの浅間神社と同じご神体なのです。
無戸室(うつむろ)に入りて焼き給(たま)ふちかひのみ中に、火〃出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申す。
お姫様が、字の通り戸口のない室(むろ)に入って、神様に誓いを立てて火をつけて、わが身をお焼きになる最中に、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)がお生まれになったそうで、室の八嶋と申します。
御姫様は、ニニギノミコトさまのお妃さまになられた人でした。一夜の契りでご懐妊なされ、ミコトさまから、「それは私の子どもではないね」と疑われたそうです。そして、身の潔白を晴らすために、今から私は炎に焼かれますけど、もし旦那様の子どもでなかったら、みんな焼け死んでもかまいません。と、自らを犠牲にされた。すると、神様はちゃんと見ておられて、たくさんのお子さんが炎の中から生まれた、という神話がありました。
それで、室(むろ)で、たくさんお生まれになったというので八つの島ということなのかな。
神様って、壮絶な誓いをお立てになられますね。びっくりするくらいです。
また煙を読み習はし侍(はべ)るもこの謂(いわ)れなり。将(はた)このしろといふ魚を禁ず。縁記(えんぎ)の旨(むね)世に伝ふ事も侍(はべ)りし。」
また、煙にちなんだ和歌を詠むのが習わしになっているのも、こうしたいわれがあるようでございます。なにしろ、自らの体を焼き、やがては復活・再生されるのですから、煙のこじつけがなくてはならない。
また、煙にちなんだ和歌を詠むのが習わしになっているのも、こうしたいわれがあるようでございます。なにしろ、自らの体を焼き、やがては復活・再生されるのですから、煙のこじつけがなくてはならない。
それから、海の魚のこのしろ、関東ではコハダという魚を食べないようにしているというのです。どういう理由・つながりがあるのか、イマイチわかりませんけど、いろんな言い伝えが残っている土地なのです。
少し物知りな発言です。私のために、あれこれと観光ガイドみたいなのを調べてくれていたんですね。本当に貴重だけれど、お社そのものは、そんなに印象がなくて、とりあえず、同行する曽良のことだけを書いておくことにします。
実際に、この土地がこの花さくや姫さまが降臨されたとか、そういうことはないようです。けれども、お社が作られ、伝説は伝わっている。
その伝説を頼りに、奈良時代、平安時代と何度も歌に詠まれているようです。
そうした歌枕を旅するわけですが、歌い古されたものは、わりとスルーしていこうと思います。
一応、メモとしては残しておきますが、印象に残らなかったら、淡々とスルーしてみてください。
私も、自分らしい俳句世界をイメージすることはできませんでした。
いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは(藤原実方)
人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八島も名のみ也けり(源重之女)
下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ(大江朝綱)
煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける(大江匡房)
いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん(藤原俊成)
恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ(藤原忠定)
「かの有名な名所・室の八島も、今では煙の代わりに糸遊(陽炎)が立つような田園地帯に変わってしまったんだなあ」
室の八島大明神に来る途中周囲の田園風景を眺めながら詠んだ句です。
これが、芭蕉時代の江戸の町の人達が抱いていた室の八島のイメージです。
樹木が鬱蒼として陽炎の立たないこんな神社の境内は室の八島じゃないだろう。芭蕉は疑っています。
ですから芭蕉は、[奥の細道]で室の八島の印象を一言も述べていないんです。
曾良の話は、「富士山信仰を記紀神話に結びつけるために」時の吉田神道がでっち上げて、この神社に押し付けたこの神社の縁起です。
江戸時代、こんなバカげた話を信じる下野国の人は一人もおりませんでした。
信じてるのは、現在の我々だけです。
故郷にいた時に、学校で室の八島を教えられたことが一度も有りませんでした。
また現在、栃木市のホームページに室の八島は紹介されておりません。
ひどい話です。
しかし、松尾芭蕉が室の八島を訪れた当時(1689年)、室の八島は「当州に無双の名所」(1688年、[下野風土記])でした。
そして、江戸の町で知らぬ人は一人もいなかったくらい名の知られた名所でした。
だから、松尾芭蕉が訪れたんです。
芭蕉は日光に行くついでに室の八島に立ち寄ったのではありません。
「室」は意味わかりません。
「八島」は、広大な湿地帯に沢山の島が浮かんでいるような所、すなわち名勝・松島や象潟を内陸部に再現したよな景色の場所だったでしょう。だから歌枕になりえたんだと思います。
ところが、中世になりますと、天変地異によるのか人工的な灌漑によるのか知りませんが、本来の景色は失われてしまい、その周縁部に在った下野国府の集落一帯が室の八島と呼ばれ、流刑の地となります([平治物語])。
「信西(しんぜい、藤原通憲)子息各 遠流 に処せられる事」
「(藤原成憲が)下野国府に着きて、わ が住むべかなる無露の八島とて、見遣り給えば、烟(けぶり)心細く上りて、折から感涙 止め難く思はれしかば、泣く泣く斯くぞ聞えける。・・・」
でも、そんな事に触れた参考書は無いでしょう。
学者は松尾芭蕉の[奥の細道]を読んで「何だ、こんなつまらない歌枕」とバカにしてますから、室の八島についてほとんど調べてないんです。
ところがどっこい、室の八島について書いた古文書・史料って、たーくさん有るんです。
いわずもがなと思いますが、木花咲耶姫の無戸室の故事の舞台は、関東ではありません。九州です。
本地垂迹時代に作られた浅間神社の縁起・[浅間御本地御由来記]は後に、記紀神話を重要視する神本仏迹思想の吉田神道によって一部書き換えられ、[・・御本地・・]というタイトルにも関わらず、本地の部分が削除され、代わりに「これ木花咲耶姫の縁起とかや」と記紀神話の神に関する一文が脈絡もなく挿入されます。
[奥の細道]「室の八島の段」の曾良の話は、この話から繋がってゆきます。
現在、記紀神話の神を祭神とする神社はたくさんありますが、そのほとんどは江戸時代初めの吉田神道と明治政府によってこじつけられました。
話が長くなりますので、この部分だけ説明します。
「木花咲耶姫は既に死んでこの世におりません」と偽って難を逃れるために、焼くと死体を焼く匂いがするというコノシロを焼き、「姫が死んだので今野辺送りして火葬にしているところです」とごまかしたという、この神社の縁起(起源・由来)から、この神社では現在、祭神を救ったありがたい魚であるコロシロを食べることを氏子に禁じています。
という意味です。
室の八島のある栃木県栃木市の人達は、室の八島の存在を学校で教えられることがないので、だれも室の八島の存在を知りません。
私が 室の八島の存在を知ったのは、高校を卒業して 2~30年経ってからです。たまたま本屋で[奥の細道]を立ち読みして知りました。
おそらく先生方は、[奥の細道]を読んで「なんだ こんなつまらない所。生徒に教える必要はない」と考えたんだと思います。 あまりにも無知なバカ先生達で、あきれ返ります。