ふと思いました。日本という国の選挙は、少しずつ少しずつ、人物ではなくて、政党によって人を信頼する形に変化させられてきたのだ、と思いました。本来なら、立候補した人が自分の掲げる主張を人々に訴え、それを受けて人々が投票するのではなかったでしょうか。
どういう訳か、めんどくさいのか、複雑な社会だからか、訴えを伝えるということはお金がかかるからなのか、選挙を受ける者たちの論理で変わってきたのですね。お金がかかるから、小選挙区、個人よりも政党を信頼していただく。だから、誰が総理になったとしても、わが党の代表として国を運営する、そんな理屈でしょうか。
ニュースの世論調査では、「どうしてここに投票するのですか?」の質問に対する回答項目の中に、「支持する政党だから、ここに投票する」という文句まで作られています。「特に誰に投票したいという気持ちはなくて、まあ、支持する政党だから、そこに投票するというのは当たり前じゃないのかと考えたのか、誰かの「忖度」なのか。
調査する方は「それでいいのだ」と思っているし、みんなが「まあ、そんなものか」と思っている(思いこまされている)、というのが今の私たちの状況ではないでしょうか。
支持する政党だからとすべてを信頼したわけではなくて、いろいろと批判はあるわけです。言いたいこともあるのです。でも、政治家というのは、当選さえしたら、あとは任期の間ぬくぬくと過ごすし、それが重なってきたら、もうふんぞり返るでしょうね。オレ様が国民を支配してるだなんて、とんでもない思い上がりもあるかもしれない。お金を取れるところとしてしか見てない時もあるのか。
まあ、そういう私の思いつきでした。
韓国やアメリカ合衆国、フランスなど、大統領がいる国は、政党ではなくて、特定の人物へ投票している。人を選ぶ選挙であって、その投票する人にみんなが集約されていくのはすごいことだ、とうらやましくなるのです。
トップが変わると、大きく国も変化してしまいそうで、合衆国もこの秋は大変なことになります。これは周辺国にとっても気が気ではありません。影響の大きい国なら、合衆国がクシャミしたら、日本は熱を出して寝込むとか、国そのものが大病を患うことになるとか、ハラハラドキドキです。
それほどに人に対する投票というのは、風向きをガラリと変えてしまう。その点日本のように、誰がやっても同じで、顔がちっとも見えなくて、どこのどいつなのか、何度顔を見せても、世界からは意識されないなんて、悲しいやら、道化みたいな役割をずっと演じなくてはならなくて、とても哀れな感じです。
何しろ日本のトップはよほどうまくやらないとすぐに下ろされてしまうのです。任期も何もない、明日のことは国民に訊いてくれ! 人気がなくなったらハイ終わり、みたいな使い捨て内閣がずっと続いています。そこが何となく哀れでもありますが、あまり同情しても仕方がない。あの人たちは特権を持つ人たちなのです。私みたいなものとは違う世界に住んでおられる。
第二次大戦で戦争に突入した日本という国の責任者は誰だったのか? 外国の人たちはわからなかったでしょう。まさか昭和天皇だったのか? トウジョウだったのか? 誰をつかまえ、責任を追及しても、ちっとも罪が見えてこないじゃないか! この国の実体・本体は何か? 研究しても、裁判してもわからなかったでしょうね。
罰するのであれば、国民全員を罰しなくてはならないくらいに、国全体が罪があったかもしれないし、顔が見えないのは確かでした。さすがに全員を裁判するというのはできなかったから、見せしめの裁判しかできなかったでしょうね。
顔は見えないのに、やらかす時にはムチャクチャなことをする。虫も殺さぬような小柄で無表情のヤツらなのに、どうして武器・武装だけはあんなに熱心なのか。いくら研究しても答えは見つからないし、今も同じです。
日本という国の選挙は、一人の人物を選ぶのではなく、集団に何もかもを任せる形でやりくりしてきたのかもしれません。私たちはそういうのに慣れて、まあそんなものだと思っていた。関西では、テレビで毎回・毎日出て来る人たちが選挙でえらばれているので、メディアミックス選挙が行われ、ぶっちぎりで地方政党が選ばれています。関西の人は、顔が見える選挙に満足しているでしょうか?
関西以外の地域では、顔の見えない選挙になってしまいました。何も候補者からは伝わらず、たまに地域の課題が盛り上がったり、議員の汚職で政治が大事という意識が広がったり、一時的には盛り上がりますが、基本はどうでもいいみたいな空気がずっと漂っています。
昔は、もう少し人々が誰かに自分の一票を託そうと、顔の見える選挙もありましたし、全国区で名簿の中から選んでください! というシステムだってありました。
けれども、政治家たちは、ものすごく票を集めた人と、ギリギリのところで滑り込み当選した人とが比べられるのは嫌だったでしょう。当選したら同じなのに、彼らにもプライドみたいなものがあった。
だから、それほどに得票数が比べられてしまう選挙は止めてしまい、誰かが知らぬ間にコソコソと当選する今の方式を案出したのでしょう。おかげさまで、小選挙区はそれなりに盛り上がりますが、でも、ここでも世襲であるとか、有名な人の後継者であるとか、人物よりも人柄・肩書・家の伝統みたいなので選ぶことになってしまっています。
果たしてこれが選挙といえるのか、それが私にはわからないのです。
大統領を選ぶ、ということは私たちはできません。支持された政党内で権力闘争があって、そこで決まっていく。その内部のトップ選びには、人々はノータッチで、ご都合で決まっていくようで、私たち自身も人物を選ぶことは諦めてしまっている。
これから、人物を選ぶ選挙の形が生み出されるのか、それはしないで、「みなさん、私どもの政党に投票してください。悪いようにはしません」などと言われても、いよいよ誰も信用できなくて、人々の選挙離れが加速し、今日の裏金事件を生み出しました。これからもこうしたお金や利権を求める人たちは政治の世界からなくならないでしょう。
私たちは、選ぶ自由も消されて、どこの誰だかわからない人を信用しなさいと騙されて、ウンザリしていくのでしょうか。顔の見えない選挙、顔の見えない政府なんて、私たちが望んだものではなかったはずなんだけど……。