長い間ニンゲンというのをやっていると、自然に身につくものがあるようです。本人にスンナリ納得できる時、たとえば膝が悪くて正座ができないとか、歯がほとんどなくなって、入れ歯をしなきゃいけないのに、入れ歯なしでものを食べるとか、もう自分の体を使って工夫しながら生活する、今の二つはうちの母の例ですけど、私だったら、ものすごい老眼で、ものを見るには60cm離して見るとか、仕方なくそうなってしまうことがあるみたい。
でも、わたしの耳の場合、耳を意識して見ることがなくて、放置していたら、うちの奥さんは「おとうさんの耳とんがってる。誰かほかの人になったんじゃないの? 宇宙人と入れ替わった?」なんて言うのです。
まさか、宇宙人に乗っ取られたのでもないと思うし、特別な顔の側面を酷使するスポーツに参加したこともないし、自然ととんがったんでしょうか。わたしはずっと「私」のはずでしたが、どこかで何かを落とし、顔などの部品を替え、オジンのわたしを作ってきたのでしょうね。
私がしたのではなくて、勝手にそうなったみたい。いや、人というのは、ある程度のプログラムがあるから、この歳にはこんな風になる、というのが実は計画書みたいなところに書かれてあるのでしょう。できれば、そんなことは知りたくなくて、適当にボンヤリ暮らしたい。耳がとんがろうが、頭が薄くなろうが、ずっと「私」のはずなのです。
でも、どこか体だけじゃなくて、心も、ホネも、感性も、いろいろと更新されているのかもしれない。人がどのように感じようとも、見た目は変わろうとも、わたしは何となく続いているのです。
先週末、80年代前半を過ごした仲間と久しぶりに会い、お酒を飲んで、何となく昔をふり返ったことにはなりました。
でも、私はほとんど何も話せなくて、みんなが楽しそうにしていたら、「まあ、それでいいや」みたいにしてみんなの話を聞いていたのだと思います。
せっかくのチャンスなのに、何も今の私みたいなのを出せなかった。私の悩み(特にないけれど)も聞いてもらうことはありませんでした。そんなに何もかもすぐにあれこれ話せる能力があれば、もう少し違うことができたかもしれなくて、そういう適応力のない私は、長いダラダラした空間の中で、ボソリボソリと二言三言ことばを交わすくらいしかできない人間でした。
そして、目の前にいるともだちの耳を見ていました。
「あれ、彼はこんな耳をしていたのか? 現在も、耳としては大きくて立派で、いい形ではあるのだと思うけれど、どうしてそっくりそのまま後ろへなびいた形になっているんだろう。真正面から彼の耳を見たら、耳そのものは側頭部にくっついて見えないよ。どうしたんだろう?」
何度も何度も、彼の耳とその向き方が不思議だなと思わずにはいられませんでした。そう、彼は睡眠時無呼吸症候群のため、空気を送るマスクをつけ、呼吸ができなくなったら強制的に空気を送る機械を取り付けて寝ることにしていて、もう何年かを続けているし、「これをいつか外す時が来るの?」と質問したら、「これは一生取り付けて寝なくちゃいけないんだ」と言ってましたっけ。
無呼吸を止めるか、呼吸器をつけるのを止めるのか、苦しい選択です。
そう、体にペースメーカーをつけたり、ギブスをはめたり、いろんな取り付け道具もありましたね。私たちが生きていくということは、機械や道具と共存・共生するということでもあったのですね。
呼吸器を毎晩付けているから、彼は耳の形が変わったのだろうか? そんなこと再会した時には言えませんでしたね。
仕方のないことなのかな。目も耳も、頭も頭皮も、手も指も、足も関節も、いろんなところが機械と道具と共存する(せざるを得なくなる)ものなんでしょう。
だから、最後はもう何もかも取っ払ってしまいたい! なんて思うのかもしれません。その時にならないとわかりません。せいぜい頑張って、ハゲはハゲのままに生きていきます。老眼は不便だから、老眼鏡をつけるかな。上手にバランスを取りつつ生きていきたいです。