島原半島の海側にそそり立っていた原城。あそこに近隣のキリシタンの人たちが集まり、幕府軍の襲来を待ち構え、攻防戦を行ったという話でしたが、空撮で海側から見た時の原城にはドキリとさせられました。
その孤独な感じ。孤立無援な感じ。あれではどれだけ結束し、信ずるものを守るために戦うとしても、長期戦には向かなかったでしょうね。補給を絶たれたらジリ貧になってしまう。いくらなんでも、どんなに頑張ったとしても、武器や食料がなければ、いつかは力をなくしてしまう。籠城戦であれば、長持ちする戦略が必要でした。気持ちだけではなくて、物質的なものがなければ戦争はできません。
そういえば、小田原攻めのとき、秀吉さんは小田原の城のまわりを囲む攻める側の陣地をぐるりと作ったといいます。戦う前に、秀吉さんは土木的な戦略で相手の戦意を喪失させるとても賢い戦略を持っていました。戦わずして勝つことができたようです。毛利攻めのときにも、新しい堤防を作り、敵方のお城を水没させて相手が降参するまで待ち続けた。
それくらいに、戦うときには、相手と自分それぞれの陣地の地形は大事でした。
速攻・物量作戦の信長さんが苦労したという石山本願寺とは、現在の大阪城あたりにあった一向宗のお寺でした。ただのお寺なのに、信長さんの猛攻に耐え、ほとほと困らせたのは、補給もできて、信長さん得意の火攻めにも耐えられるところに本拠地があったのだと思われます。まあ、当時の大阪城あたりはあたり一面の湖なのか、川なのか、海なのか、不鮮明な土地だったと思われます。
南からまっすぐに上町台地が伸びていて、その先端に石山本願寺があった。たぶん、交通の要衝だったのではないかと思われます。人も食料も持って来るルートがあったんでしょう。
そこが長年の戦いによって降参し、信長さんの手に落ちた後、もう一度土地整理をして、埋め立てもしたり、いろいろな土木事業がなされたと思います。確実に盛り土し、人馬が移動しやすいように道を整理し、湿地を埋め立て、都市づくりがなされたことでしょう。
すべては秀吉さんの大坂城を守り、町を作り、管理するためのものでしたが、そのルーツは本願寺の人たちによって始められた。
さて、金沢の町です。南には北西に伸びる犀川。北にはそれと平行するような浅野川が流れています。その二つの川に挟まれた土地に川と平行するように小高い丘が続いていて、そのはじっこにまわりを見わたすところが、今も金沢城と兼六園があります。
どうしてこんなところにお城ができたんだろう。
南北から押し寄せる敵をさえぎる大きな川があって、外堀の外堀になっていたはずです。水は上流から水路を通して、水位の差によって兼六園でも噴水ができてしまうような落差が利用されています。高さはある。適度なフラットな台地で、お城を作るには最適な土地のようです。
ここにお城を建てようとしたのは、前田の殿様の意志もあったでしょうが、なんとここも一向宗の本願寺が根拠地としていて、地域を支配していたということでした。そんないい土地だから、お城も作られたようです。
一向宗・本願寺のみなさんは、戦うことを考えて本拠地づくりをした人々だったのですね。だから、加賀の国を支配し、越前の国でも暴れまわり、大坂でも、伊勢の国でも、きっともっとたくさん一向宗の基地みたいなところは再利用され、お城に転換していったのがあるのかもしれません。
何も考えてなかったけど、土地の発展のために宗教は大事なんですね。信じる人たちまるごと消滅させられたら、それは大変だけれど、人の心を簡単に支配はできないし、宗教と町づくりはバランスをとりつつ発展しなくてはならない。一部に偏った支持というのはバランスも何もなくて、不自然なものだと思われます。今回の衆院選でも、宗教は自分たち組織の保持のために動いたでしょうけど、偏ってなかったのかどうか。そういう宗教は見直されるべきであって、自然な発展をしてもらいたいと心から祈るのです。