甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

鹿沼と近江と芭蕉句碑

2017年03月25日 09時35分17秒 | 芭蕉さんの旅・おくのほそ道ほか

 芭蕉さんは1689年の8月中旬に大垣に到着し、「おくのほそ道」の旅を終えました。作品はまだ書いておらず、あちらこちらの門人たちに誘われるままに、旅から旅の毎日を送っておられました。伊勢に行き、伊賀を通り、奈良を訪れ、京都で人に会っている。

 江戸を出てからはどこを基地にして動いたのかというと、近江ではないかという気がします。だから、「行く春を近江の人と惜しみけり」などいう近江の人をたたえる作品も残すことになった。

 そうか、やはり近江だったのだ。伊賀上野はふるさとだから何回も訪れ、凱旋はされています。それなのに、落ち着いてそこをベースに動くというものではなかったようです。三重県ではうまく作家活動ができなかったんですね。

 どうも三重県って、作家としては住みにくいんだろうか、みんな出て行かれますね。こちらに来てくださる作家さんっていないのかなあ。中上健次さんからあと、すごい作家さんは住み着いてくださらないのです。三浦しをんさんとか、先祖伝来の土地へ帰ってこないかなあ。無理かな……。

 遊びに来ることはあるけれど、落ち着いて何かをしていく街になりきれていないんですね。



 翌年もしばらく近江に滞在されます。あちらこちらに行きますが、町の空気とうまくシンクロできるのは近江の大津や膳所(ぜぜ)だったようです。

 こちらに菅沼定常(すがぬまさだつね)さんというお侍さんがいました。この方のご先祖には、家康さんの下で戦い、膳所三万一千石の藩主になり、やがては丹波の亀山四万一千石のお殿様になった方がおられます。その流れからか、当時の膳所藩のお殿様・本多家の下で、定常さんは家老をしていた。そりゃ、先祖が活躍した人ですから、子孫もあちらこちらで重要なお役柄になっているようでした。

 ご家老の定常さんは三十代で、働き盛り。けれども武士の教養として俳句も勉強していて、芭蕉さんにお弟子入りしたいと思っていた。芭蕉さんがちょくちょく来られるので、親交も生まれたようです。芭蕉さんは四十半ばでもう晩年の時期に入っていました。

 1690年の4月、定常さんの祖父や伯父の庵を少しだけ手入れして、芭蕉さんをお迎えして住んでいただくことにしたようです。この庵が芭蕉さんの新しい基地になりました。ここで3ヶ月くらい活動の拠点として、小さな旅を重ねて行かれていた。

 とりあえず、新しい根拠地のことも書いておかなくちゃと、芭蕉さんは「幻住庵記(げんじゅうあんのき)」というのを書いておられます。



 石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微(すいび)に登ること三曲(さんきょく)二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益(りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。

 日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹(ねざさ)軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。


 石山の奥、岩間の後ろに山があり、国分山という。昔の国分寺の名を今に伝えているということだ。ふもとに流れる細い川を渡って、山の中腹にのぼっていき、曲がりくねった長い道を登っていくと、八幡宮がある。ご神体は阿弥陀仏の尊像だとかということだ。

 神仏混淆を認めない神道の宗派からみれば、たいへんけしからんことなのだが、神も仏もその光をやわらげ世俗の塵にまみれることで、かえって衆生を救済しようとされている。たいへん尊いことだ。

 日ごろは人が参詣しないので、さびれた感じがかえって神々しく、もの静かである場所の傍らに、住み捨てられた草の庵がある。

 よもぎや根笹が軒を囲み、屋根を盛って壁は崩れ落ちて、狐や狸にとっては寝床を得たようなものだ。庵の名を幻住庵という。

 あるじの僧の某(なにがし)は、菅沼曲水という清廉な膳所藩士の伯父にあたる人物であるが、今は他界して八年ほどになり、まさに幻のうちに住む老人というべき名のみを残している。



 そんなところでしばらく過ごすことができたんですね。春が深まる、ちょうどいい季節だったのではないかなあ。


  ……念入れて冬からつぼむ椿かな  曲水


 それくらい芭蕉さんにとって魅力のある土地であった。この曲水(きょくすい)という人が、膳所藩の家老の菅沼定常さんのペンネームです。

 この人の弟で、怒誰(どすい)さんという人がいた。もちろん武士をしていて、それなりに教養のある方であった。漢文の勉強もしていたろうし(荘子さんが専門だったようです)、俳句だってたしなんでいた。

 そこへ芭蕉さんがお手紙を書いて、「君やてふ我や荘子(そうじ)が夢心」という句を送ったそうです。怒誰さんも近江のお弟子さん、取り巻き連中の1人です。その人にあてた作品だったのに、それがどうして栃木県の鹿沼市の今宮神社に句碑があるのか?

 近江の朽木というところから鹿沼の藩主になった方がおられて、その人の関係で鹿沼に来た縁かと思いましたが、時代が古すぎて合いません。菅沼氏で出世した方がいるから、そっちの関係と思っても、合わなくて、やはりわかりませんでした。

 どうして近江の人への句が、栃木県の鹿沼で碑になっているのか、近づけた気がしたんですが、それは気のせいでした。

 さて、曲水さんはそれから、27年後、同じ家老の蘇我権太夫(そがごんだゆう)という人が不正をはたらくので、とうとう自らで権太夫を切り、自分も切腹したそうです。それくらい真面目な方だったということです。芭蕉さんたちと楽しく過ごせた30代は遠い昔のことで、お仕事を続けていくうちに、同僚にとんでもないヤツがいたから、これを除き、自らは責任を取って切腹なんて、何だか悲しい終わり方です。

 ああ、近江と鹿沼の今宮神社と、どんな関係があるんだろうなあ。滋賀県から東国に向かわれた人のお話はいくつか妻から聞いていますが、滋賀県の人ははるばる関東に出向いていったんでしょうね。西武グループの堤さんたちだってそうですね。

 それでも、結局わかりませんでした。ザンネン。でも、どこかで何かがつながっているなんて、何だかうれしいです。


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