伊藤とし子のひとりごと

佐倉市議会議員4期目
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「福島から消えつつあるもの(警戒区域に入って)」医療ガバナンス学会メールマガジンより

2013-02-19 00:41:28 | 原発問題
医療ガバナンス学会メールマガジンより転載します。
ぜひ全文読んでいただきたい。

「福島から消えつつあるもの(警戒区域に入って)」
南相馬市立総合病院・神経内科 
小鷹 昌明

震災から1年9ヶ月が経過した。2012年12月24日の、いまにも雪の舞い散りそうな寒い日に、私たちは浪江町から双葉町、大熊町へのツアーを敢行した。


南相馬市での線量は、高くても1マイクロシーベルト程度であり、線量計としての本来の能力を発揮するには到底及ばない数値であったが、それがみるみる上昇していった。
マックス25マイクロシーベルトを記録した場所は、ちょうど原発の排気塔とクレーンの見える地点から北西の方角だった。


この地でも、高い放射線量を恐れて多くの人々が逃げた。
その線量を長く浴びれば浴びるほど、人間の身体には何らかの悪影響を及ぼすものである。
そのことは、もちろん理解している。
しかし、それが自分にとってどれ程大切で、どんな手立てが必要なのか。
原発の後は何も語らない、何も残らない、何も築けない、警戒区域の伝えたことは、ただそれだけだった。
私たちは、そこから何を想像していけばいいのか。

"殺処分"の指示を受け入れずに、商品価値のまったくなくなった餓死寸前の"被爆牛"を、個人で保護している牧場(浪江町・吉沢牧場)があった。
それは、原発から14キロメートル北西の地点に位置し、約30ヘクタールの放牧場を有している。
私たちは、そこを訪れた。
牛たちが、体を寄せ合うようにそこで命をつないでいた。
その中で、自らの足で立てなくなった、まさに弱いものから消滅していく灯火を見た。
吉沢さん(牧場主)は、「いまここに生き残っている牛たちは、福島原発事故の生き証人である。
それらを殺処分することは、証拠の隠蔽である。
"生きたガレキ"などでは断じてない。
深い深い絶望の先にしか、希望はないのかもしれない。
私たちの行動には必ず意味がある」と語った。

たとえどんなに国が、社会が、世間が「危ないから逃げろ、商品価値のない牛は処分しろ」と詰め寄っても、この人の中に存在するすべてが、全身全霊が、「それは、絶対に違う」と叫んでいる。
その声は、あまりにも力強く、抗し難く、社会的な価値観と真っ向から反目している。
かろうじて立っていられるその中で、自身を支えながら血みどろになって闘っている。
いったい、いまの現実をどこまで引き受けられるのか......。それもたった独りで......。
多くの仲間が、その孤独に耐えきれず、与していく中で、自分が自分であるために行動し、声を上げている。
それは、放射線被害におけるひとつの"叫び"だった。この人は、「ひとり」という原点に立ち返っていた。
「人間として」という起源に立ち戻っていた。
一歩も引かずに前に出る。
それしかない、それしか「自分が何ものなのか」を確認する方法がない。
諦めたら「もう誰でもない自分」になってしまう。
そのあまりに悲痛な慟哭に、私たちは、差し出されたお茶にいっさいの手をつけることができなかった。


"警戒区域"のツアーを終えた瞬間、私はすべての言葉を失った。
現実を受け入れることだけで精一杯であった。
いまやっと、いくつかの言葉を絞り出すことができるようになった。
「整理できなくて伝えられない」という言い訳は、もはや、いまの私には通用しない。
「まさに、伝えたいけれど伝えられない」、そのもどかしさというものだけでも大切にしたいと思い、文章を書き連ねた。
福島への想いの中に、「知らなかった」という自己弁護を封じるために、言葉を重ねた。
それは、"被災地の現状"を伝えるためではない。
"人間の過ち"を伝えたいのだ。私たちが"ここにいる"ことを伝えるのだ。


この街で、私は、私の行動に一歩の意味があるとしたら、それをやる。
そして、私は、私の行動に一歩の意味がないとしても、マイナスでなければやりたいと思う。
さらに、私は、私の行動がマイナスでしかないとしたら、それでもやっぱり、一歩を踏み出すために、やはりやりたいと願う。
それが、この原発から一番近い街における行動のような気がした。
転載おわり


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