昨夕、私は帰宅を急いでいた。
とにかく早く帰りたい。
1秒でも早く帰って、逢いたいのだ。
トイレに。
おはようございます。
駐車場に車を停め、一旦気を引き締め直すと、
急かすように、腹がギュルっと音を鳴らす。
そんなに焦るなよ。
いいかい、考えてごらん。
今ここで、この世に出てきたって、
お前さんには何の得にも成りはしないんだぜ。
いや、もう無駄死だぜ。
トイレからこの世を眺めるのが、お前さんの本望なはずだ。
そう腹に説得をしながらも、
もう走れる段階ではない程に、間近に迫りくる感覚を知り、
一切の振動を抑えたい時に使う、
能的歩行を用いて早歩きでトイレ目指して一目散だ。
時には、早く出たいと我儘をぶつけてくるブツの訴えに、
立ち止まって説得せざるを得ない状況に耐えながら、
ようやく、マンション2Fの我が家のドアに辿り着いた。
さぁ。ドアを開けよう。
という時に、隣人さんが背後から、
「おかっぱちゃ~ん」と。
マジか?今か?
隣人は話しを続ける。
「おかっぱちゃんのお部屋は、トイレや洗面場、濡れていない?」
どうやら、隣人さん宅で水漏れが発生したようだ。
確認しますねと伝え、急いで見に行くと、確かに我が家も濡れていた。
トイレの床が濡れていたんだ。
ようやく逢えた、トイレの床が。
やっと、逢えたね、トイレさん。
貴方に逢いたいと言ってるヤツが居るんだよ。
この腹ん中に。
もう少しだ。ちょっと待ってな。
私は、一旦トイレを離れ、エントラスで待つ隣人さんに、
漏れている事を伝えた。
すると、
水漏れが不安で、パニック状態になっている隣人さんは、
仲間が出来たと安堵したかのように、私の腕を掴んで離さない。
「もうびっくりしちゃって、めまいで死にそうなの」
歳の頃なら、我が母と同じ年代のお婆ちゃんだ。
めまいがするなら、一旦休もうねっと言うと、
「おかっぱちゃん、他の住人さんにも知らせんといかんよね。
おかっぱちゃん、他の住人さん達に早く・・・あっめまいが」
おい、聞いたかい、ブツ。
どうやら今は、お前さんとトイレの逢瀬に付き合う場合じゃないようだ。
引っ込んでろよ、いいか、引っ込んでろ!
そう腹に言い聞かせ、とにかく急がねばと、
階段を上へ下へと飛び回る振りをしながら、
ドサクサに紛れてトイレとの密会を図ろうとしても、
隣人さんは私の腕を離さない。
休んでてと言っても、隣人さんは責任感が、とても強い人だ。
「おかっぱちゃんに押し付けちゃう訳にはいかんから、頑張る」
と頑張って、私の腕にぶら下がってくる。
今ここで、隣人さんをぶら下げる力を出すのは、私にとって、とても危険な事だ。
ほんのちょっとの気の緩みと力みが、私の身を亡ぼす時だ。
そう解っていても、この手を振り払う事ができない。
それも、力みの要因になるからだ。
隣人さんをぶら下げて、聞いて回る事、約1時間。
その合間に、隣人さんの昔の思い出を聞く事、約1時間。
私は、合計2時間、
ジタバタと足踏みで耐え忍んだり、
ぐっと空を見つめて、耐え忍んだり、
長い溜息で、耐え忍んだりしていたら、
もう、水漏れの原因なんて、どうでもいいと思えてきたんだ。
水漏れなんて、屁だって、思えてきたんだよ。
なっ、おかしいだろ?
ブツ、聞いてるかい?
うんこ「で、どうなったの?」
日を改めて業者さんに詳しく調べてもらう事になったんだ。
やれやれだよ。
うんこ「母さんの方は、どうなったの?」
大丈夫だったよ、うんこ。
8割がた、大丈夫だったんだよ。
やれやれだよ。
そんな眼で、私を見るな!
精一杯頑張っての8割は、屁よりも重い。