ある日、私は、
壁に留まるアシナガバチに気が付きました。
おはようございます。
会社のトイレには窓が着いており、その窓から、たまに虫が迷い込む。
それが、蜂であることも珍しくはありません。
一日目、
便座に座ってから、天井近くの高い壁に、それは居ました。
黒と黄色の縞模様をした、大きなアシナガバチです。
便座に座っていては、もう逃げることはできなかった。
私は身をかがめて用を足し、慌ててトイレを出たのです。
「次は、こうしよう」
頻尿の私は、トイレの回数が人より多い。
何度も行くとなれば、比較的穏やかとされる種類の蜂であっても、
刺される確率が上がる。
そう思い、私は白いタオルを頭にほっ被りして、トイレへ行くことにしました。
蜂は、黒い物に危険を感じて攻撃をするということを、私は知っていたからです。
だから、黒髪を隠そうと思い立ったのですが、
この日の服装は、全身真っ黒であったことは、見落としていました。
それほどに、私は蜂が怖かった。
闇雲に頭だけ白いほっ被りをして、全身真っ黒なまま、
5回ほどトイレへ行っては蜂に慄いて、
それでもこの日は、何事もなく無事に終わりました。
二日目、
私は真っ白なカーディガンを羽織って会社へ行きました。
とはいえ、さすがに蜂は窓から出て行っただろう。
そう願いながら、会社に着くなり、真っ先にトイレへ向かいました。
けれど私は、真っ先に蜂を確認せず、流れるように便座へ座ってしまった。
これが条件反射です。
トイレを見ると、自ずと下着を下げる条件反射なのです。
そのまま便座に座ってから、
恐る恐る天井近くの壁に目をやると、蜂は居ました。
昨日居た場所とほとんど変わらない位置に、同じように留まっていた。
けれど、蜂の様子は、昨日とは、少し違って見えました。
「あらっ、生きてる?」
目を凝らすと、蜂は、足のように長い触角を小刻みに動かした。
「あぁ、生きてる。」
この日私は、仕事をしていても、頭の中はトイレのことばかり考えていました。
窓は開いている。
なのになぜ、あの蜂は出て行かないのだろう。
気付けば、私はパソコンで『アシナガバチ』を検索していました。
そして、『10月~11月にかけて、女王バチ以外は死んでしまう。』という事を知ったのです。
私は思わず席を立ちました。
便意も尿意も感じていないけれど、トイレへ入ったのです。
「ねえ貴方、こんな所で死んでしまうつもり?」
すると、蜂は体に張り付いていた羽をピンと立たせた。
「死ぬ?誰がそんなことを決めたんだい?」
「だって貴方、もう蜂じゃないみたいよ。
昨日は黄色かったところが、黒くくすんでいて、羽だってシワシワよ。」
上向きに留まっていた蜂は、体を反転させた。
「ならば、俺は蜂じゃなくなったというのかい?」
「いえ・・・。ねえ、どうしてここに居るの?」
窓から覗く空は真っ青だ。
「ねぇ、私がここから出してあげましょうか?」
蜂は、立たせていた羽を寝かせた。
「俺は今、風を待っているんだ。」
「風?」
「俺を正しい場所へ乗せて運ぶ風さ。」
「何処から吹くの?」
「この体から風は吹く。それを待っている。」
「正しい場所って、どこ?」
「今は、どこかなんて分からないさ。」
再び窓の外に目をやると、やはり空は青く太陽は頼もしい。
野原に舞う黄色い蝶々が、この陽気に包まれて喜んでいるように見えた。
「こんな所で独りで待っているなんて、怖くないの?」
「何が怖いことがあるものか。
お前は自分に吹く風を信じていないのか?
俺達は、いつだって、風を信じている。
この体に吹く風に乗って生きて来たんだ。何も、怖いことなど無い。」
これ以来、何度見ても、蜂は羽を立たせることは無かったけれど、
私は蜂を、そっとしておくことに決めました。
3日目、
私はトイレに入り、まず床を見ました。
死んだ蜂が転がっているのではないかと思っていたからです。
けれど、落ちているのは取り損ねたトイレの紙の破片だけでした。
まさかと見上げると、蜂は居ました。
「まだだったか。」
風は吹かなったし、命は尽きなかった。
私は一応と思い、5センチほど開けられている窓を全開にしておきました。
何度トイレに入っても、蜂は動かない。
体はさらに、黒ずんできたように見えて、
私は蜂に話しかける気にもなれませんでした。
蜂を気にするのは、もう止めておこうとさえ思ったのです。
4日目、
私の服装は、また真っ黒でした。
もう蜂に刺される心配など全くする必要はないと諦めていました。
けれど、蜂はまだ、壁に留まっていた。
そして私は、驚きました。
真っ黒にくすんでいたはずの体の縞模様が、ハッキリ見えたのです。
体も、大きく膨らんでいるようにさえ感じ、
私は反射的に「怖い」と感じました。
この時の蜂には、蜂が怖い、という普通の感覚を覚えたのです。
同時に、胸が高鳴りました。
これまで私は、蜂の亡骸を見ることしか、想像していませんでした。
あの萎れた羽では、到底飛ぶこともできないだろうと。
けれど、力強い蜂の姿に、もしやと思えたのです。
そして思わず、声に出してしまったのです。
「風よ、吹け!」
仕事の合間に外へ出てみれば、
空は真っ青で、汗ばむほど気温が上がっていました。
ここ最近、天気がいいわりに肌寒いと感じていたくせに、
この日は、むしろ暑かった。
風よ、吹け!
午後2時、
私は蜂の様子を伺うために、トイレへ行きました。
しかし、蜂はどこにもいなかった。
床の隅々まで探し、トイレ用のスリッパを振ってみた。
窓のサンに挟まっていないかも確認した。
けれど、蜂の姿はどこにも無かったのです。
トイレを出て、私は外へ飛び出しました。
念のため、玄関から乗り出せば見える、トイレの窓も外から確認した。
そして私は、空を見上げて、
「風・・・本当に吹いた。」と呟きました。
再び飛び立つならば今だという日に、
蜂は、自分の行くべき正しい場所へと風に乗って行ったようです。
最近の私は、自分を信じることに萎えていた。
独りで待っていることに怖れてもいた。
だからか、あの蜂が気になって仕方なかったのかもしれない。
そして、一匹の蜂に、
自分の風を信じようと、思い直したのでした。
さて、我が家のたれちゃんも、
風のようにやってきたけど・・・
たれちゃん?
母ちゃんの足、踏んでるよ?
ちょっと、おどんなたれ蔵は、そんなことは気にしない訳で、
お尻トントンをして欲しいらしい。
たれ蔵「母ちゃん、トントンして」
はいはい、お尻トントン
たれ蔵「ぴぴぴぴぴー」
お尻は、スイッチみたいだね。