私が、多感な頃は、電話は一家に一台だった。高校になると各部屋に電話はあったけど、それでも全部のベルがなるから、誰か電話していることはお互いにわかっていた。
私などは長話をしていると、親が電話に入ってきて、「ちょっと、電話使いたいんだけど・・」なんて、言われたりした。今では、考えられないことかもしれない。
友達に電話をするときも、家族が出た場合の応答の仕方を練習してからかけたものだった。結構どきどきして電話をした。
「○○さんのお宅ですか? 私は△△ですが、♡♡さんいらっしゃいますか?」なんてね。今では仕事以外に取次ぎはない。
携帯電話は本当に便利。待ち合わせをする際にも、相手がどこにいるのか、自分がどこにいるか、簡単に伝えられる。ただし、正直に話をしていれば・・だが。
小学生の子供にも携帯電話を持たせて親は安心している。そうだろうか・・・安心だろうか・・・。
携帯電話がなかった頃は、どこにいくの?誰と行くの? 何時に帰ってくるの? と親は子供に聞かなければならなかった。時間になっても戻らない場合は、親は何か起こったと行動を起こさなければならない。
それは、子供にも伝わっていた。だから、親がいなかった場合、出かける時は、置手紙を書いたりした。置手紙も死後となったのではないか・・・。
携帯電話が悪いのではない。人が変わってしまったのだろう。言葉にして伝えなければならないことがある。テキストではなく、直接伝える必要があるものがあるはずだ。
言葉より、ノンバ―バルな表現=顔つき、雰囲気、声の調子 などなど・・の方が、多くのものを相手に伝えると言語学では教わった。