私の英語論を振り返ってみると:
私が英語論というか、我が国における英語の在り方、私が見る学校教育の英語の問題点、私の「科学としての英語」ではなく”English”についての持論等を本格的に論じるようになって20年も経っただろうか。その間にバラバラに時によって各論を展開してきたことと(また反省したかのように言えば)私の表現が拙かった為にか、多くの方から私の意図とは相容れないご批判と反論を頂戴した。
それらの中には私の意図を十分にご理解頂いていないのではと危惧する批判的な論調もあった。そこで、今回はあらためて私の英語論を極力手短に総括して、何とか私の意図をご理解願えるように述べていこうと考えた次第だ。
英語の勉強と会話の能力:
私は我が国では、こういうことは万人に押し付ける必要がないと思っている。本当に英語力または自分の思っていることを英語(あるいはEnglish)で表現出来るような力は、それを絶対的に必要とする職業や学問や仕事を選択された方が、英語圏の国々との文化の違いまでを弁えて、正しいと言うか、より目的に叶った方法で学べば良いだけのことだ。そういう必要に迫られている人が我が国にどれほどいるのかという問題を考えてかかる必要があるだろう
支配階層の英語:
私はこの次元の英語を学ぶというか知る必要があり、万人がその次元を目指して学ぶべきだとは主張するものではない。私は偶々転身した先のアメリカの会社ではそういう英語が出来る能力を求められており、知らず知らずに間にそれに適応出来たのであって、始めからその次元を目指していたのではない。幸運にもそれに対応出来る基礎が出来ていただけだ。
万人がその辺りというかアメリカや海外の会社を目指す必要も又ない。私は1994年1月のリタイヤー後に10年を経て知り合った仏文学のTK博士にそう指摘されて初めて「そうだったのか」と意識しただけのことだ。アメリカではアメリカを支配している人たちは全体の精々5%見当で、その富を握っている人たちよりは多いくらいであろう。故に、私は多くの同胞がその層のアメリカ人と交流する機会は極めて希だろうし、その次元というかその域を目指す必要がないと唱えるのだ。
目標の設定:
ここで指摘しておきたいことは、どの階層と交流する為の英語を目指して勉強するのではなく、文法を正しく覚え、自分にとって適切な語彙を習得し、可能な限り正しい発音が出来るようにすること等の基本というか基礎を築くことを優先すべきだと思う。「会話」等という技は基礎がキチンと固まっていれば、イヤ固めることに努めれば、その上にその力が自然に備わっていくものと心得て置いても良いだろう。どの階層か等ということは、チャンと基礎が出来た後で考えれば良いことだ。
どの次元か:
これは支配階層のそれから、先頃例として採り上げた”Every years, I take vacation two month, you know.”や、「単語を並べただけ」等々の種々の段階があるだろう。そのどれを選択されるかには私は介入する意志はない。ご自分で選択され「これで十分」と思われる次元に達するよう努力されれば良いことではないか。しかし、可能な限りより高い次元を目指しておかれて、満足出来た時点で落ち着かれたら如何か。換言すれば「可能な限り易きにつくな」となるだろうか。
教養ある人の英語:
これは音声学の権威でご自身も美しいQueen’s Englishの発音をされ、American Englishを下品だと切り捨てられた千葉勉先生が指摘された「文法を守れず、連結音とR-likingを知らないようでは、英国(UK)では無教養と見なされるの厳重に注意せよ」と指導されたことから引用しているのだ。この教訓はアメリカの大手企業内に入っても全くその通りだったのには、寧ろ驚かされたものだった。我が国の学校でもこの原則に従った教育を施す方が無難だろう。
音読と暗記と暗誦:
これは私が偶々実行した中学から高校にかけての勉強法である。そこには単語帳は作らない、英文和訳はしない、英作文は重要視するが学校での教科とは違う形だった、知らないか解らない単語に出会えばその都度辞書を引いて文章の流れの中で使い方(意味)を覚える等の独自の方式が含まれていた。ここには何ら科学的根拠はなく、学校の方式よりも楽に英語が解るようになって行っただけだとの実績があった。
最も良かったと自負していることには「音読・暗記・暗誦の結果で文法的に誤った表現が口から出てこなくなったこと」を挙げたい。この方式は私だけで成功した訳ではなく、中学生の家庭教師、社会人への個人指導でも成果が上がった。
GHQの秘書の方に指導されて話せるようになった:
これは確かに特殊な例かも知れないが「英語のままで考えて、日本語にしようとするな」、「これから話そうとすることを日本語で思い浮かべてから英語に訳そうとしてはならない」、「話しの間に”you know” を挟むな」、「言葉に詰まったら”let me see.”か”Well・・・.”と言って繋ぎなさい」という類いの基礎で、会話での方法を主として学んだのだ。これらはアメリカ人の中に入っても活かすことが出来た貴重な教訓だった。このことと学校での勉強とは無縁ではなかった。これを私は幸運と振り返っているのだ。
以上のような項目に纏められると思う。何方かがエリート教育を受けたと批判されたが、見当が違うと思う。私は確かに音読・暗記・暗誦というやり方で進んできた。この方式はもしかして簡単であるかのように聞こえるかも知れない。だが、決してそうではないし、これだけに依存して今日がある訳ではない。そこを語っていないだけで、中学から大学までの通じて試験90点以下が2度しかなかった実績の背景には、それなりの他のやり方も使って学ぶことがあったと申し上げて終わる。
私が英語論というか、我が国における英語の在り方、私が見る学校教育の英語の問題点、私の「科学としての英語」ではなく”English”についての持論等を本格的に論じるようになって20年も経っただろうか。その間にバラバラに時によって各論を展開してきたことと(また反省したかのように言えば)私の表現が拙かった為にか、多くの方から私の意図とは相容れないご批判と反論を頂戴した。
それらの中には私の意図を十分にご理解頂いていないのではと危惧する批判的な論調もあった。そこで、今回はあらためて私の英語論を極力手短に総括して、何とか私の意図をご理解願えるように述べていこうと考えた次第だ。
英語の勉強と会話の能力:
私は我が国では、こういうことは万人に押し付ける必要がないと思っている。本当に英語力または自分の思っていることを英語(あるいはEnglish)で表現出来るような力は、それを絶対的に必要とする職業や学問や仕事を選択された方が、英語圏の国々との文化の違いまでを弁えて、正しいと言うか、より目的に叶った方法で学べば良いだけのことだ。そういう必要に迫られている人が我が国にどれほどいるのかという問題を考えてかかる必要があるだろう
支配階層の英語:
私はこの次元の英語を学ぶというか知る必要があり、万人がその次元を目指して学ぶべきだとは主張するものではない。私は偶々転身した先のアメリカの会社ではそういう英語が出来る能力を求められており、知らず知らずに間にそれに適応出来たのであって、始めからその次元を目指していたのではない。幸運にもそれに対応出来る基礎が出来ていただけだ。
万人がその辺りというかアメリカや海外の会社を目指す必要も又ない。私は1994年1月のリタイヤー後に10年を経て知り合った仏文学のTK博士にそう指摘されて初めて「そうだったのか」と意識しただけのことだ。アメリカではアメリカを支配している人たちは全体の精々5%見当で、その富を握っている人たちよりは多いくらいであろう。故に、私は多くの同胞がその層のアメリカ人と交流する機会は極めて希だろうし、その次元というかその域を目指す必要がないと唱えるのだ。
目標の設定:
ここで指摘しておきたいことは、どの階層と交流する為の英語を目指して勉強するのではなく、文法を正しく覚え、自分にとって適切な語彙を習得し、可能な限り正しい発音が出来るようにすること等の基本というか基礎を築くことを優先すべきだと思う。「会話」等という技は基礎がキチンと固まっていれば、イヤ固めることに努めれば、その上にその力が自然に備わっていくものと心得て置いても良いだろう。どの階層か等ということは、チャンと基礎が出来た後で考えれば良いことだ。
どの次元か:
これは支配階層のそれから、先頃例として採り上げた”Every years, I take vacation two month, you know.”や、「単語を並べただけ」等々の種々の段階があるだろう。そのどれを選択されるかには私は介入する意志はない。ご自分で選択され「これで十分」と思われる次元に達するよう努力されれば良いことではないか。しかし、可能な限りより高い次元を目指しておかれて、満足出来た時点で落ち着かれたら如何か。換言すれば「可能な限り易きにつくな」となるだろうか。
教養ある人の英語:
これは音声学の権威でご自身も美しいQueen’s Englishの発音をされ、American Englishを下品だと切り捨てられた千葉勉先生が指摘された「文法を守れず、連結音とR-likingを知らないようでは、英国(UK)では無教養と見なされるの厳重に注意せよ」と指導されたことから引用しているのだ。この教訓はアメリカの大手企業内に入っても全くその通りだったのには、寧ろ驚かされたものだった。我が国の学校でもこの原則に従った教育を施す方が無難だろう。
音読と暗記と暗誦:
これは私が偶々実行した中学から高校にかけての勉強法である。そこには単語帳は作らない、英文和訳はしない、英作文は重要視するが学校での教科とは違う形だった、知らないか解らない単語に出会えばその都度辞書を引いて文章の流れの中で使い方(意味)を覚える等の独自の方式が含まれていた。ここには何ら科学的根拠はなく、学校の方式よりも楽に英語が解るようになって行っただけだとの実績があった。
最も良かったと自負していることには「音読・暗記・暗誦の結果で文法的に誤った表現が口から出てこなくなったこと」を挙げたい。この方式は私だけで成功した訳ではなく、中学生の家庭教師、社会人への個人指導でも成果が上がった。
GHQの秘書の方に指導されて話せるようになった:
これは確かに特殊な例かも知れないが「英語のままで考えて、日本語にしようとするな」、「これから話そうとすることを日本語で思い浮かべてから英語に訳そうとしてはならない」、「話しの間に”you know” を挟むな」、「言葉に詰まったら”let me see.”か”Well・・・.”と言って繋ぎなさい」という類いの基礎で、会話での方法を主として学んだのだ。これらはアメリカ人の中に入っても活かすことが出来た貴重な教訓だった。このことと学校での勉強とは無縁ではなかった。これを私は幸運と振り返っているのだ。
以上のような項目に纏められると思う。何方かがエリート教育を受けたと批判されたが、見当が違うと思う。私は確かに音読・暗記・暗誦というやり方で進んできた。この方式はもしかして簡単であるかのように聞こえるかも知れない。だが、決してそうではないし、これだけに依存して今日がある訳ではない。そこを語っていないだけで、中学から大学までの通じて試験90点以下が2度しかなかった実績の背景には、それなりの他のやり方も使って学ぶことがあったと申し上げて終わる。