新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

slangとswearwordの区別がついていない

2014-09-03 14:38:27 | コラム
故・松本清張はお解りではなかった:

実は、私はこれまでに繰り返し「松本清張は解っていない」と指摘してきた。

昨2日の夜にプロ野球中継のチェンジの間か、さもなくば地デジ放送のCMの時にか、BSで広末涼子主演の松本清張原作の「ゼロの焦点」の映画を一寸だけ見てしまった。そこに出てきた場面は、広末に「あの人の英語はpan panだけしか使わない俗語が混ざっていたのでおかしいなと思った」と言わせていた。私はこの小説は読んだし、別な監督によって映画化された?のを見たような記憶がある。だが、この「誤り」の発言には気が付かなかった。

「誤り」と断定するのには根拠がある。それは、私は昭和27年から29年末までの間に銀座の某デパートでアルバイトをしていたのだが、その際に「英語が出来る学生さん」との呼びかけがあって応募して「朝鮮動乱の戦場から休暇で東京に来ている兵士たち」に当時繁忙を極めたディナーセットを中心に我が国の優れた陶器と磁器の売り場で働く機会を得ていたのだ。

そこには連日のように兵士たちが押しかけるので、英語が解る者を配置しないと折角の好機(商機)を逸すると店側が判断したのだった。そこで知り得た現実は「兵隊たちが話す英語の驚くべき質の低さ(教養の無さを表すとも言えるだろうか)だった。そして、大分後になってそうだったと知り得たことだが、彼等が使っていた言葉の大半が "swearword" だったという点だった。こういう英語を理解して応対する能力は、英語力の有無とはほとんど関係がないと言っても良いと思った。

そこには忘れてはならないことがあった。それは、ほとんどの兵隊たちは戦争が終わった直後に多く見かけたある特殊な職業の女性に案内されてくることだ。多くのその職業の女性たちは皆気が良く、人なつっこくて憎めないのだったが、彼女らが使う英語は兵隊たちから口移しで覚えたものらしく、それこそ "swearword" を多用した所謂「Panglish」であり、決して "slang" 等と言う上品な?部類の言葉は入っていなかった。満3年間も彼女らと接してきた私が言うのだから間違いない。

余談だが、同じ売り場にいた私と同年の店員の男性には悲劇があった。彼が店が休みの月曜日に彼女(お断りするまでもなく一般の女性である)と銀座を歩いている時に顔馴染みになっていた特殊な女性に「あら、お兄さん。こんにちは」と挨拶されたそうだ。すると一緒にいた女性に「あのような職業の人と知り合いとは不潔」と激怒され、幾ら説明しても解って貰えずに絶交されたのだそうだ。

思うに、この頃は兵隊(GI等とも呼ばれていた)が使う英語を品がないと貶していた向きもあったのは間違いない。だが、私はその当時に "slang" =「俗語」と "swearword" =「汚い言葉」が今日のように区別されていたとは思っていない。だが、当時でも「スラング」という分け方はあったと思う。という次第で、松本清張が混同していたとしても決して彼の無知でもなく、批判するべきでもないとは思うが、連合軍(アメリカ兵)の兵士蔑視の姿勢は見えているのではと思っている。

今だから言えるのだが、私は下品の部類に入る英語とは「文法無視であり、発音の不正確さであり、連結音が出来ていないことであり、時と場合を心得ていない表現等(例えば swearword の多用)を入れることである」と認識している。そこには slang 入れていない点をご注意願いたい。

何時のことだったか、私が「 "Me, too." は教養の程度を疑わせる表現だ」と指摘した際に「ライシャワー大使もお使いになっていた」と反論した方がおられた。これは完全な文法無視の言い方だが、私は「大使と雖も、寛いだ個人的な場面では使われることだってあると思う」と説明したが、ご納得頂けなかった。日本語にでも「チクショウ」があるが、仲間同士ではこういう言葉を使った経験がない方がおられるだろうか。

続・英語論 #3

2014-09-03 08:35:18 | コラム
簡単で易しい言葉で書こう:

「世の中とはこういうものだ」
解説)これは私が高校の頃に英作文の聖書のように使って「英語の(文語の?)書き方」を勉強した佐々木高政氏(当時は東京文理大の教授だったか)の名著「英文構成法」からの引用である。これがサッと英語で出てくるようになれば、先ず先ずの英語が書けていることになるとされていた記憶があった。それが何と正解出来た時の嬉しさ忘れられないものだった。その正解は

"That’s the way things happen." だったのである。

英語という言語でのものの考え方がこういうものだと解ってくれば、道が開けてくるものだろう。この問題を多くの人たちに与えてみたところ、最も近く且つ正解としたいものは "Things happen that way." だった。国語と英語の思考体系の何処か違うかを考える良い材料ではないか。

「私が自分で責任を取る用意がある」
解説)謝らない文化に固執する人たちににしては珍しい台詞だが、それほど重大な事件か事故の時の言うことではなく、前後の情勢を判断して大きな損失がない時にはこのように言い出すことがある。

"I am willing to take the (full) blame." なのであるが、簡単に "I will take the blame." でも良いだろう。ここでは "responsibility" とは言っていないのだが、私は敢えて日本語では「責任」にしておいた。

「まさか、あそこで彼に出会うとは思ってもいなかった」
解説)"I have never expected to see him there." でも十分に意味が出てるかのように見えるが、意外性の「まさか」が表現されていない。

"He was the very last person for me to see there." のように言えば "the last person" が「まさか」に当たるだろう。"It was the last thing for the company to get up to the "#1 supplier’s position in the Japanese market." のようにも使えるだろう。

「もう少し大きな声で言って頂けませんか」
解説)「大きな声」だからといって必ずしも "loud" とはならないようだ。これも、アメリカ人が以下のように言ったのを聞いて真似をすることにした。

"Could you speak up a little? I can’t hear you well." だったのだ。

「彼は人の話を聞いていない(聞こうとしない)」
解説)如何に熱心に報告しても一向に私が言うことを聞いてくれない人がいたので、同僚「彼はなんだ」とこぼした。すると以下のように言われた。

"He listens to only what he likes to listen." と。「なるほど。聞きたくない案件だったのか」と悟った次第だ。

「来週の今日また集まろうぜ」
解説)正直に回顧して、これを初めて聞いた時は良く意味が取れなかった。それは

"Let’s get together again a week from today."だった。その理由は "today week" という言い方もあって、これは確か「先週の今日」と「来週の今日」の意味があったからだった。しかし、これは確認すると「来週の今日」即ち、来週の同じ曜日のことだった。

この度の易しい単語編はここで一旦終わりにしよう。最後にお断りしておきたいことは「私はTOEIC如きに約立つことなど書く気持ちは一切ない」ということ。
真一文字拝