新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

テレビが使う一寸おかしなカタカナ語

2014-09-17 14:42:54 | コラム
カタカナ語の濫用を戒めたい:

過日、主宰者がNHKが「コンセプト」というカタカナ語を使っていたとご立腹だった。私も賛成だったが、こういう高度な?英語をカタカナ語化して使うのも偶には結構かも知れないが、それ以外にも民放では日常的に使っている低俗なカタカナ語は山ほどある。そこでその中から幾つか採り上げていこう。

トラブル   trouble
解説)言うまでもなくと言うか、この言葉をテレビが使った時には「揉め事」か「何らかの問題を生じたこと」だと受け止められる方が多いと思う。兎に角、事件の原因でも、諍いの原因でも、品質上の何らかの問題点でも、彼等は躊躇うことなく「トラブル」というカタカナ語で一括りにしてしまう。私はおかしいと思うし、元の英語の意味を何処まで弁えて使っているのかなと疑ってしまう。

ジーニアス英和では先ず「心配、苦労、悩み、人にとっての心配事、苦労の種、厄介者」という具合に出てくる。2番目の項目で「・・・に関する迷惑、面倒:困難、災難、故障、骨折り、欠点」が出てくる。「揉め事」は第3番目だ。

では、Oxfordはどうなっているかと思えば「”~ についての a problem, worry, difficulty, etc., or a situation causing this」となっている。驚くことには第2項目は”illness” となっている。3番目が”something that is wrong with a machine, vehicle” とある。「揉め事」は見当たらなかった。

三省堂の「表音小英和 」では「苦労(の種)、骨折り;厄介者;揉め事、病気」の順であり、揉め事の優先度は高くなかった。

それでも、テレビ用語では頻繁に使われている。私は英語ではこれほど広範囲に使われていると知って、彼等に「具体的に日本語で解説するべきだ」と言ってやりたい。こんな言葉を安易に使って英語の小学校からの教育もないものだ。英語には”problem” という言葉がある。

ホール   多分 whole
解説)これは食べ物の番組で、美味い洋菓子(大きな円形のもので、一人前に切る前の形)を紹介する時に「ホールで買えば」等という形で出てくる言葉だ。私は原語が何であったかを気にすることもなく、焼き上げた(完成したままの)形を「放る?」というのかな程度に考えていた。だが、何度も繰り返して聞かされている間に、どうやらそれが「全体」を指す”whole”のことかなと気が付いた次第だ。

私はアメリカでもあの過剰な甘さに辟易とさせられて、ケーキ類はほとんど食べていないので、この業界の専門語を知らない。だから、切り分けられたものに対して「ホール」というのかなと推理しただけのこと。また、wholeにアクセントを置かずに「ホール」と平べったく言われて、情けないことにwholeを思い浮かべられなかったのだ。ではwholeを日本語にすればどうなるのか、何方か教えて下さい。

相棒  buddyだった
解説)これはフジテレビのクイズ番組で「相棒に当たる英単語は何かというか」の問題だった。私も居合わせて次男もpartnerだと思った。だが、回答者集団が答えられず、控えの集団が、buddyと怒鳴って正解だったのにはビックリした。ジーニアスには「男の仲間、相棒(friend)」と出て、次が「男へも呼びかけ(親しく)おい、君(怒って)おいお前」となっている。

Oxfordには、先ずアメリカ語として”(informal)a friend”が出てきた。次がまたアメリカ語で”used to speak to a man you do not know”が出て、3番目に特にアメリカ語と断って”a partner who does an activity with you so that you can help each other”となっているので、「相棒」という解釈が出来る。だが、partnerと言っている。

私は”buddy”とするのは多少無理があるような気がする。それは余り上品な部類には入らない言葉だと認識していたし、ほとんど使った記憶がないのだ。確かにホテルなどでドアマンやページボーイに”Hey, buddy.”という具合に呼びかけたかも知れないが。それにこの呼びかけ方は「アフリカン・アメリカン」に対してのことだと聞いたような微かかな記憶もある。矢張り”partner”の方が無難ではないだろうか。

私の英語論

2014-09-17 08:12:40 | コラム
支配階級の英語とは:

私の英語論に対して「頂門の一針」に長文の反響があり、その中に「彼の論ずる英語論は、英語を母国語とするか、若しくは、それをビジネスの基調言語とする人々を対象とする正論であり、誰もそれを否定できないと思います」とあった。

そこで、それに対してあらためて下記のように意見を述べておいたので敢えてご披露する次第。

私の英語論:

大変興味深く拝読。私は以前にも下記の通りに言っております。

<正直に言えば、東京事務所にいた University of Washington の経営学修士(=MBA)を持つ日系人にも厳しく彼等の世界の英語を仕込まれただけなのです。アメリカの上場企業がそういう格式が高い英語の世界とは知りませんでした。>

これは以前に「アメリカの会社に転じて仕事の面で使う言葉は、それまでの仲間内で使っていたものとかなり違うので、それを覚えるまでの間には思わぬ苦労があった」と回顧してたことと同じだろうと思います。

私は我が国の英語教育では「英語、就中アメリカでの英語にはUKにはないほどの階層別の差が厳格にあることを知らずに、科学としての英語を作り上げてしまったことに問題があるのではないか」と思っております。ましてや、既に指摘したように、アメリカ(UKでもか?)のそういう階層(その昔には特権階級=privileged class などという存在もあった)に日常的に接して彼らの言葉を知る機会は普通の日本人にはなかっただろうと実感しています。

私は偶々そういう人たちの英語(とその言葉遣いの厳格さ)を知り得たので、今になって紹介をし始めたのだと自覚しているのです。そうするようになった切っ掛けは、昭和26年に上智大学で千葉勉教授(故人である)に「文法を間違えるとことと、連結音、特に”r-linking” を知らないと無教養と思われる」の教えが実際にその通りだと思い知ったのです。

しかも戦後の我が国では(何でも朝日のせいにすれば)「平等」という名の「悪平等」が蔓延り、階級や階層による差ないしは差別などが許されない風潮が蔓延しました。言葉遣いにもその気配があったかと思います。だが、現実には「山の手言葉」が「標準語」なしいは「東京弁」のように思われていたし、それを揶揄するかの如き「ざーます言葉」等という表現もありました。そういう階級の方々がおられたと思います。

私は「自分が覚えた英語こそが英語であって万人がそれを学べ」等とは言っていませんし、「日本では英語など勉強しなくても良いと言うか、必要がある人は少ないし、小学校から英語などとは愚論である」が主張です。

話を変えて、アメリカにおける日本料理にも触れておきたいのです。ワシントン州のシアトル市内からその南の約1時間のドライブの距離にあるタコマ市(Tacoma)までの間には、それこそ無数の日本料理店があります。その中で数軒を除けばほとんどが韓国人の経営です。食べてみれば限りなく日本料理に近く、言うなれば “something very much like Japanese food” でしょう。

現地にいれば「それでも何とか和食に近い味がするから、それでも良いか」と言って通っておられた同胞もおられましたし、純真に “Very good.” と食べに来るアメリカ人が多数いました。私は西海岸での人気投票で1位になった最高の日本食料理人のシローさん(樫葉四郎)経営の往年の「日光」か、現在の “Shiro’s” に行くようにしていました。

即ち、どの水準か品質を是とするかは、その人がお決めになることで、私が外野からどうのこうの言うことではないと考えております。私を新卒で採用して下さった旧三井物産の流れの会社での言葉遣いがどれほど厳しかったかは、既に述べました。私の趣旨は飽くまで「どの階層か、どの水準の英語を学ぼうと思うかであり、それはご当人の選択に任せる」であります。

しかし、我が国の英語教育が彼等(誰だろう?)が崇拝するUKにもない厳格さがアメリカにはあることを知らずにひねくり回して「科学としての英語」にしてしまったのは好ましいのかな、最善の策だったのかと言い続けます。




携帯端末を考える

2014-09-17 08:04:11 | コラム
スマホには問題が多いと思う:

恐らく問題がないと思っているのは、ドコモその他の携帯電話会社だけだろうか。15日の連休最終日に山手線に新大久保から乗ってみると、見渡せる限りの席に16人座っていて、そのうち僅か7人だけ!が下俯いてジッとスマホを見つめるか、忙しげに指を動かしていた。我が国全体で何億個行き渡っているか知らないが、車内でスマホ族が50%を切っていたのは異常?だった。

乗り物の中では相変わらず「マナーモードにせよ」とか「優先席付近では電源をオフにせよ」とのアナウンスが流れている。これらが実質的に無意味となった現在でも、止める訳には行くまいとは思う。これと菅直人が設けた「1ミリシーベルト」の制約との効果の違いは解らないが、国立国際医療研究センターでは嘗て「携帯電話は20センチ以内に接近しなければ大丈夫」との掲示があった記憶がある。

また、同センター内のロビーで私の隣に座っていたラップトップとスマホを操作していた者たちは看過され、携帯電話に受信して話し始めた私は注意され、外に出された。この辺りの規制はどうなっていくのだろうか。何故携帯電話だけが差別されるのだろうかと、考えていた。

私は街中や車内で圧倒的多数の人たちがスマホに熱中しているのを見て、我が国の年齢的中間層があの建値では数万円/個の端末を買い、尚且つ月間何万円かの出費を厭わないのは彼等が余程家在的に恵まれているか、またはその出費が過剰で我が国のGDPの過半数を占める個人消費が廃れているのかの何れかと思っている。となれば、スマホは21世紀における好ましくない開発商品の一つに入ってくるかも知れない。

先程、テレ朝で見たのだが、重慶ではスマホのながら歩きを認める歩道が50メートル設置されたとのことだった。それにどれほどの意義があるかの議論は別にして、我が国では「スマホのながら歩き、自動車と自転車運転中は禁止で、違反者には厳罰に処す」とでもいう新法を施行しない限り、あの迷惑どころか危険極まりない無法行為を排除しきれなくなるのでは。いえ、そこにはがら携をも?包含すべきだろう。

兎に角、ここ新大久保百人町界隈にお出で願いたいものだ。上記のような形でスマホを操作している者などいくらでもいる。大久保通りの狭い歩道を堂々と自転車で走り抜ける者も含めて、出鱈目が罷り通っている。困ったことにそれらの無法者が我が国の同胞か異邦人かは歩行者には判定不能なのだ。

私はそれらから発信される有害電波よりも、ながら族との路上や駅構内等での衝突や自動車と自転車の無謀運転の方が余程恐ろしいのだ。我が国民の道徳観や法律遵守の精神は薄れてしまったのだろうかと嘆く、今日この頃である。