新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

前回W杯を獲った女子代表のサッカーの強さが何処にあったか

2015-06-06 14:08:40 | コラム
前回の女子サッカー日本代表の強さを探れば:

「直向きさ」と「やってやろう」という気持ちの強さにあったとみた。それは5日夜にNHKのBSで見た準々決勝(the quarterfinal game かな)で二連覇中のドイツに勝った試合にあった。今となってはあの頃の女子たちがどういうサッカーをやっていたのかという記憶が薄れてきたのだった。反省すれば、当時でもFIFA(と書いただけでも何となくおぞましさを感じる)の4位だったという認識はなかったほど女子のサッカーには疎かったのだった。

半分も見ないで認識出来たことは「今となっては望むべくもない『直向きさ(ヒタムキさ)』と『やる気』と『何としても勝とう、イヤ勝って見せよう』という気迫が恐ろしいほどに見えていた試合振りだった。「負けても失うものはない」と割り切って当たっている捨て身のような挑戦と見えた。しかも、自分たち以上に強力だと解りきっている相手に対して、何としても守り切ってやろうとの強い意志がハッキリと出ていた。

誤解なきよう申し上げておけば「やる気さえあれば上位者にも勝てる」というものではなく、勝てるだけの実力があったことが重要なのである。ドイツは日本に対する事前の調査も不十分だった気配が見えていたし、捨て身で来ている相手を如何にしてこなして勝ちに持って行くかという力がなかったのが悲しいかな、あの時点での彼等の実力だったということであろう。

我が代表の現在との明らかな違いの一つが、私が忌み嫌う後陣でのというか味方間で横パスを回し合って前で誰かが動いてスペース(おっと、カタカナ語だった!)を作るまで待っているという消極性がなく、積極的に組み立てようとの意欲が見えていた点。しかも、あの試合での横パスの速さもその直向きさが表れていてかなりスピードがあり、ドイツに容易にインターセプションを許すものではなかった。

私は既に「彼女らには伸びしろが余り残っていないようだとか、なでしこリーグの隆盛のためにあのレベルで纏まってしまった後進しか育っていない」と批判した。だが、あの試合を見ると「今や前世界王者としての強さを見せなければ」であるとか、その意欲が余ってか「貫禄」さえ漂うサッカーになってしまい、4年前の「直向きさ」は何処に行ったのかを感じさせられた。

この貫禄というか偉そうにしてみせるサッカーを最も解りやすく見せているのが、あの試合では佐々木監督が使っていなかった川澄だ。決勝戦とその後の多くの国際試合で見せた澤や宮間に使われてこそ勝ちがあった川澄は、今や周りを使うことに自分の力を見せる場があるとでも思って(錯覚して?)いるのか、初心を忘れたかの感があるのが残念だ。

再度言えば、今や余裕と貫禄の見せ場かと疑う後ろでのパス回し、積極性よりも消極的なパス回しが多く見えてくる。私は批判しているかも知れないが、W杯を獲ってしまったという重圧を全員が感じすぎて、引いて守って数少ないチャンスに得点をして勝とうというような消極的とも見えるサッカーは出来ないであるとか、大事に大事にと後ろにいる者にパスをしている場面が多すぎると感じている。

即ち、「失うものの大きさ」をイヤというほど感じていると見える。それを批判するほど私は意地悪ではない。「私如きには解らない重圧と戦っているという面があるのだろう、大変だろうな」と思っているだけだ。私がそういう捉え方となることの原因を確認が出来たのが、あのドイツとの延長戦に勝った辺りにあったようだ。

素直に言えば、私は佐々木監督以下選手たち全員がもう一度あの時に見せた初心というか「直向きさ」と「やる気」を出せれば、連覇も見えてくるかと希望的に考えている。

実は、同様なものをエントリしてありましたが、題名を抜かしてしまったので敢えて採録する次第です。軽率でした。



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2015-06-06 11:37:30 | コラム
「直向きさ」と「やってやろう」という気持ちの強さを見た:

5日夜はNHKのBSで放映した準々決勝(the quarterfinal game かな)で二連覇中のドイツに勝った試合で見えてきた。今となってはあの頃の女子たちがどういうサッカーをやっていたのかという記憶が薄れてきたので良い勉強になったのだった。反省すれば、当時でもFIFA(と書いただけでも何となくおぞましさを感じる)の4位だったという認識はなかったほど女子のサッカーには疎かったのだった。

半分も見ないで認識出来たことは「今となっては望むべくもない『直向きさ(ヒタムキさ)』と『やる気』と『何としても勝とう、イヤ勝って見せよう』という気迫が恐ろしいほどに見えていた試合振りだった。「負けても失うものはない」と割り切って当たっている捨て身のような挑戦と見えた。しかも、自分たち以上に強力だと解りきっている相手に対して、何としても守り切ってやろうとの強い意志がハッキリと出ていた。

誤解なきよう申し上げておけば「やる気さえあれば上位者にも勝てる」というものではなく、勝てるだけの実力があったことが重要なのである。ドイツは日本に対する事前の調査も不十分だった気配が見えていたし、捨て身で来ている相手を如何にしてこなして勝ちに持って行くかという力がなかったのが悲しいかな、あの時点での彼等の実力だったということであろう。

我が代表の現在との明らかな違いの一つが、私が忌み嫌う後陣でのというか味方間で横パスを回し合って前で誰かが動いてスペース(おっと、カタカナ語だった!)を作るまで待っているという消極性がなく、積極的に組み立てようとの意欲が見えていた点。しかも、あの試合での横パスの速さもその直向きさが表れていてかなりスピードがあり、ドイツに容易にインターセプションを許すものではなかった。

私は既に「彼女らには伸びしろが余り残っていないようだとか、なでしこリーグの隆盛のためにあのレベルで纏まってしまった後進しか育っていない」と批判した。だが、あの試合を見ると「今や前世界王者としての強さを見せなければ」であるとか、その意欲が余ってか「貫禄」さえ漂うサッカーになってしまい、4年前の「直向きさ」は何処に行ったのかを感じさせられた。

この貫禄というか偉そうにしてみせるサッカーを最も解りやすく見せているのが、あの試合では佐々木監督が使っていなかった川澄だ。決勝戦とその後の多くの国際試合で見せた澤や宮間に使われてこそ勝ちがあった川澄は、今や周りを使うことに自分の力を見せる場があるとでも思って(錯覚して?)いるのか、初心を忘れたかの感があるのが残念だ。

再度言えば、今や余裕と貫禄の見せ場かと疑う後ろでのパス回し、積極性よりも消極的なパス回しが多く見えてくる。私は批判しているかも知れないが、W杯を獲ってしまったという重圧を全員が感じすぎて、引いて守って数少ないチャンスに得点をして勝とうというような消極的とも見えるサッカーは出来ないであるとか、大事に大事にと後ろにいる者にパスをしている場面が多すぎると感じている。

即ち、「失うものの大きさ」をイヤというほど感じていると見える。それを批判するほど私は意地悪ではない。「私如きには解らない重圧と戦っているという面があるのだろう、大変だろうな」と思っているだけだ。私がそういう捉え方となることの原因を確認が出来たのが、あのドイツとの延長戦に勝った辺りにあったようだ。

素直に言えば、私は佐々木監督以下選手たち全員がもう一度あの時に見せた初心というか「直向きさ」と「やる気」を出せれば、連覇も見えてくるかと希望的に考えている。

コメントに感謝申し上げます

2015-06-06 08:49:38 | コラム
日本大好き 様

誠に有難う御座いました。今朝も何とか一つエントリ致しましたが、未だ未だ本調子にはほど遠い状態です。

これからも自重し、慎重に回復に努力する所存です。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

真一文字

31年から中3に英語の全国テスト

2015-06-06 08:43:36 | コラム
またやってくれたかと言いたい:

掲題の全国テストは文部科学省の「英語力」の底上げを図る企画だそうである、「読む・聞く・書く・話す」力のテストを中学3年生を対象に実施すると発表されたと報じられていた。いきなり結論的な批判から入れば、「現在の科学としての英語教育と、教えることを長年ご担当の教員の質というか英語(乃至は English )観を根本的に変えない限り、TOEIC如きへの依存を止めない限り、Native speakerへの盲信から脱却しない限り、テストの方法を変える程度では我が国の児童・生徒・学生・一般人の英語力が底上げされることはない」のである。

私には文科省にもその周辺の組織におられる方々の間には、未だに英語というか”English”に対する抜きがたい劣等意識があるように見えてならない。自分たちが自由自在にと言うか「ペラペラ」と自分の意志を英語擬きで外国人に伝えられないままに今日に至ってしまったことを悔やむ余り、後進の若者たちにはその悔しさを味合わせたくないという思い(悔悟の念?と自らの地位への優越感)で凝り固まっておられるとしか見えないのだ。

その習得度には”CEFR”=(「ヨーロッパ言語共通参照枠」→Common European Framework of Reference for Languages)が基準となるようだと産経が報じていた。ここには A→基礎、B→自立、C→熟練と定められており、それぞれが1 から 2 に別れ、英検2級が B1 に相当するようになるとか。この”CEFR”は2001年に欧州評議会が定めたとあった。TOEICに続いてまたぞろ外国製の基準に従う気らしい。国内には権威者がいないのかな。

私は国際化の時代に入って(入れられてしまって?)、英語力を国際水準(って何?)に引き上げようと企画されることとその努力を否定する気は毛頭ない。問題は既に指摘したように「方法論と目指すところが見当違い」であることだと言いたいのだ。これまでの英語教育がこと話すことだけに限ってみても、惨憺たる効果しか発揮してこなかったことは悲しいほど明らかであり、教育当事者の方々は十分に認識されているのではないか。

私はこれまでにも繰り返し「英語教育改革論」を唱えてきたし、私を支持して下さる優れた学者というか大学の教員の方々がおられるとも言ってきた。即ち、現状の教育法では “I know how to express myself in English.” と自信を持って言いきれる者を作りたいだけ作ることは不可能だろうし、”London Cockney” からアメリカ南部訛もスペイン語訛のフィリピンの英語までを何の苦もなく聞き分けられる「聞く力」を持たせられないのだ。

5月31日の夜だったか、病院で7チャンネルの人気番組でお笑いコンビがホノルルを散策するのを聞いていた。通りがかったアメリカ人に「何処から来ましたか」を尋ねる企画があり、M が懸命に知恵を絞って英語で尋ねてみた。そこでは帰国子女のKアナは介入しなかった。結局は「通じず」に終わり、別の人たちに「何時にホノルルの到着したか」を訊きたかったのだが、これも失敗に終わり、ごく普通に我が国の英語教育の成果のほどを無残に見せてくれた結果になった。

私にはあの”M”君を批判する気など全くない。何度も何度も見てきた「科学として英語教育」の成果の単なる一例に過ぎないのだから。屡々「通じた」と言って欣喜雀躍?される方が多いが、某有名私立大学の附属高出身のM君は卒業後約30年も経っていれば、あの教え方と教えられ方では仕方がない結果だったと思って寧ろ同情していた。

最後に繰り返して結論めいたことを言えば、そもそも英語を「読む・聞く・書く・話す」という具合に分類して教えること自体が誤りなのである。旧Kパルプの課長だったH氏(東大卒)は1970年に「自分が言いたいことが言えるか言えないかは、英語そのものを基本的に解っているかいないかと言うことでしょう」と言われた。至言であると思う。31年から実施と言えば4年先のこと。これは、その間に教員の質と能力を変えておくという遠大な計画か。