新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

文化比較論

2015-06-10 12:14:54 | コラム
日米企業社会における文化の違い論:

私はW社で「あの環境と条件の中で自分に出来る限りの働きをして、馘首されずに19年間、61歳でリタイヤーするまで過ごしたのは大変だった」と言うべきだったと反省しております。これは「全てが彼等の体力と体格と骨格に基づいて設計・設定されている」ことの補足です。

そこで、事の序でに、これまで何度か採り上げてきた女性たちの働き方の、言わばその凄さを、あらためて採り上げます。

我が事業部の毎月の生産計画は本社から約 200 km 南にある工場で立てられます。ある時、日本関係の難しい品種の予定が輻輳して、偶々本社に出張中だった私も工場に行って会議に参加することになりました。本部で計画を担当するのは “Customer services” という名称の係の女性2人です。聞けば「工場は当然午前8時始業で、私も彼女らとそれに間に合わせねばならない」のだそうでした。

するとマネージャー格のリンダに「明朝5時に本社の駐車場集合」と言われました。私は本社から 60 km は離れたシアトル市内の Four Seasons Hotel に泊まっていたのですから、途方に暮れました。彼女は事も無げに「リサが4時に向かえに行くから」と言うのです。翌朝は5時少し前に駐車場で落ち合って、ハンズ・フリーの車内電話がついているリンダの車で200 km のドライブに。でも3時間は余裕がありすぎかと。

すると、インターステート #5 を南下中に一旦降りて、大きくて甘い「シナモン・ロール」で有名な “Country Cousin” というレストランで直径20 cm もありそうなシナモンロールにバターと蜂蜜をかけて「美味い。美味い」と楽しんでからドライブを再開。即ち、朝食の時間が含まれていたのでした。

工場には8時前に到着。出前のランチを含めて12時過ぎまでビッシリと会議。工場を出発して北上したのが午後1時。途中休むことなく本社に戻れば午後3時過ぎ。そこから何事もなかったような顔で女性たちは仕事を開始。当方も副社長他と打ち合わせに入り、終わって見れば6時は過ぎていました。それから簡単な夕食を同僚たちととって、リサにシアトル市内のホテルに送って貰えば夜も9時近く。そこであっさりと “See you, tomorrow.”で翌朝8時には迎えに来てくれることで別れるのです。

誤解なきよう申し上げておけば、私はこれが辛いとか大変だとか言っているのではないのです。これが彼等にとっては普通のことで、それに耐えるとか耐えられないとかいうことは問題でもないし、そういうことを考える人たちの世界ではないということ。私は外国人ですから、一日に出勤以外に往復400 km 以上のドライブを平然とこなし、尚且つ残業までする女性が凄いなと感じたので、敢えて採り上げただけです。彼女らにとってはそれは”job description” の中にも入っていない課題だと思っているのだろうと感心した次第。

私は「これは日米企業社会における文化の違い」であり、働き方に違いがあると捉えて論じたのです。なお、少数精鋭論でも、精鋭の集団だから少数でも何とか出来るという議論でもないのです。個人の力に依存するアメリカ企業の文化を紹介したつもりです。


少数派の英語論:

2015-06-10 07:48:05 | コラム
私は少数派であることを寧ろ誇りに思っている:

以下は昨年6月9日にブログに掲載した一文に加筆訂正したものである。1年を経た今日、未だ言うべきだと思う点が多々あるので、敢えて再度掲載する次第だ。

私は事英語とその勉強法、英語教育改革論に関しては少数派であると確信している。私は1990年5月頃から、紙パ業界の専門誌にコラムというかエッセーを書く機会を与えられた。その初期に書いたことにこういうものがあった。「学校教育の英語は生徒や学生に優劣の差をつけるため(5段階の評価をするため)に教えているのであって、会話の能力をつけようなどとは考えていない」と勇敢に語った高校の女性の英語の先生のことだった。「ナルホド、そうだったのか」と妙に納得し、再確認出来たのだった。

それから25年をも経ってしまった21世紀になっても、この事態は一向に改善されていないどころか、小学校から英語を必須にするとか、愚にもつかないTOEIC等の我が国の至らざる英教育と受験に備えた英語の勉強の集大成の如きテストで良い点数を取らないと大学を卒業させないであるとか、就職出来ないとか、昇進も昇給も出来なくなるとかいう呆れ返った事態が生じている始末だ。あのテストがアメリカ産だと信じ切っている人々が多いというに至っては最早漫画的な”naïve”なことである。言うまでもないが、これが正しい「ナイーヴ」の使い方である。

私はこれまでに何度か「有り余る英語力を抱えて云々」と本気(正気?)で言ってきた。自慢しているのではない。我が国の学校教育の「科学としての英語」で無理やり育てられた方々とは異なる勉強を採っただけで、22年以上もアメリカ人の会社で生きながらえることが出来たし、欧米の諸国との文化の違いを知り得て、それを以てして英語力を伸ばす材料に出来たのである。

従って、私の勉強法どころか、常に論じる「英語とEnglishの違い」や「英語教育改革法」などは遺憾ながら、私が非難し続ける雑音にしか過ぎない社民党の福島某の如きごく少数のトンチンカンな意見の如きに受け止められているだろうと思っている。もしも、これまでに述べてきたこれらのことを世論調査にかければ(何でアンケートなどという言葉の誤用がまかり通るのだろう)恐らく10%の支持も得られないだろう。また支持して下さる方々には「何で今頃になってこんな当たり前のことを言うのか」と笑われるだろうと危惧している。

既に指摘したことで「我が国の英語教育の問題点には、『英語とは何であるか』というか 『English と何処がどう異なっているか』も知らず、上記の女性教師のような考え方で、英語をいじくり回して世界の何処に行ってもまともに通用しないものを恰も数学のように教え込み、試験の点数こそ全てのようなものに仕上げたために、自分の思いを、言いたいことを表現することを不得手とせざるを得ない学問というか『語学』にしてしまったことだろう」と思っている。

このような誤った教え方を採り上げればキリがないが、念のために幾つか例を挙げておけば「to を伴わない不定法」として "You’d better ~"のような要らざるお節介になる語法を教え、個人的なことを尋ねないのが礼儀である国の言葉なのに、戸籍調べのような個人情報を尋ねる疑問文を「会話」と称して教えるために、何処かのテレビ局が「Youは何しに日本へ」という結構面白い番組を作ったのは良かったが、その英語の題名が "Why did you come to Japan?"と詰問するのである。

更に当方が最も忌み嫌っている悪い英語の例にJRや東急線その他の車内放送に使われている英語の放送がある。このクリステル・チアリの英語の酷さというか無教養さをむき出しにした英語の下品さは国辱的である。私は長年これを指摘し続けて来たし、某有名メルマガにも採り上げて戴き、心あると言うか本当の英語が何であるかをご承知の海外に居住される某メルマガへの寄稿者の方からも支持して戴いている。言って置くが、あのチアリの英語が美しい“native speaker”の英語だ等と間違っても信じてはならないし、真似をすることも芳しくないのである。

質問の話しに戻るが、大体からして他人にいきなり何かを問い掛けるのだったら "Excuse me."か "May I ask you some questions?" 辺りから入るのが最低の礼儀だとは教えてないようだ。私がこの件をTK博士と語り合っていた時に隣室におられた大学院生が「少なくとも "For what purpose did you come to Japan?" と言って欲しい」と指摘されて会話に入ってこられた。流石に我が母校の大学院生だ。

我が国の英語教育の問題点を論っていけば果てしがないのでこの辺りにして、あらためて改革の新案を提示して終わろう。それは嘗て言いだした英語教育の進展の度合いに伴って英語圏との文化の違いと思考体系の違いを教えていくのでは無く、多くの高校で進学組と体育系を別けているように「将来英語を必需品とする職業(色々とあるだろうが)や、海外進出を考えている者専用コースを設けて、受験対策組とは別けてしまう」ものだ。

これでは解らないと言われるのだったら、一種の偏った理想論と言われそうだが、「TOEIC 等は無視して、教える人を海外ないしは純粋の意味で外国の会社で長年働いてこられた、英語が自由自在に出来ることなどは給与の査定の対象にならない世界を経験された方に厳しく教えて貰うようにすること」のも一案とはならないだろうか。後難を怖れずに言っておけば、私は業務で海外に数年駐在したとか大学に4年くらい留学した程度の英語慣れを指して言っているのではない。

私は彼等の思想信条を知ってその世界に同化出来るような次元に達している経験を有する練達熟練者を考えている。すると、またもや「そんな人がいる訳はない。偏った理想論だ」と言われそうだ。それは取りも直さず、「自分たち(現職の英語の教員には出来ない」と言うのと同じではないかと思うのだが。それだったならば、ご自身でそういう世界を経験して来られればどうだろう。それで自分たちの至らざる点が解るだろう。

さらに余談だが、嘗て某英字新聞社の出版局が私の英語関係の論文を纏めて出そうかとかという有り難い企画されたことがあった。しかし、出版部長はボツにされた。理由は「確かに貴方が言うことには興味深いものがある。だが、これらを本にした時にそれを読んで面白いと評価する方は、こういう本を必要とされない少数派だろう。故に商売にならないと判断した」だった。遺憾ながら妙に納得した。実はこういう経験が既にあったので「またか」と思ったのだが。