新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

国語を乱す妙なカタカナ語を広めたのは誰だ

2015-06-21 09:25:36 | コラム
私はテレビのキー局とそこに出演させられている芸人どもだけではなく国会議員の責任も重大だと思う:

私はこれまでに繰り返して「我が国の英語教育では読み・書き・聞く・話すをバラバラに教えているのみならず単語を重視し、各段階の試験でそのバラバラに教えたことの効果がどれほど挙がっていたかを試す狙いの問題を出すのだ。中でも、こと単語に関して言えば部品として覚えていたが、実際の文章や会話の流れの中で単語がどのように有機的に結びついていくかがほとんど教えられていなかったことが悲しいほど再確認出来てしまった」と批判してきた。言うなれば「海外で英語が話せなかったが、単語を並べたら何とか通じた」という「通じたこと」を喜ぶような情けない成果しか上がっていなかったのだ。

また、中学1年から大学2年までの間にあれほど重要視して教えていたはずの英文法の規則というか原則はほとんど活きておらず、複数と単数の違いと女性男性の違いと現在と過去を表現し損なっているカタカナの造語と合成語が多かった点も目に付いた。私は「音読百編意自ずから通ず」を信じている。この原則に従って音読を重ねておけば、何時かは「文法的に間違った表現が口から出なくなるもの」なのだ。極めて単純な勉強法だ。

私は「我が国の英語の教え方では「主語が三人称単数なのだから、次ぎの動詞には"s"を付ける」等と一寸聞かされた程度では実際に身につかないような難しい原則を教えるから、そこで主語を再確認する作業に入って迷い自信を失ってしまう事態が発生するのだ」と確信している。そこで「文法は面倒なり」と無視する人が沢山出来てしまったのだと思っている。要するに、何時も同じことを言うのだが、「科学としての英語」を数学のように教え、英文和訳と解釈、英作文、単語のアクセント等々で束縛し、試験で優劣を付けるような手法に問題があるのではないのか。

しかし、これに対しては、先頃自分を「少数派」として認めた以上、どう足掻いても現状を変えていくことは不可能だろう。ではあっても、私はこれまでに何度も英語教育改革法を論じてきたし、理解して下さる学者も大学の関係者もおられる。それだけではない、諸外国の外国語教育が遺憾ながら我が国のそれよりも優れており、実用的でもあると指摘してきた。

しかしながら、私が長年批判し続けて来たカタカナ語と造語は益々普及しと言うか「一見乃至は一聴英語風のカタカナ語は漢字文化を含む国語を破壊し続けている傾向は誠に憂慮すべきだと思っている。その英語擬きであり真正の英語だと錯覚している者が多いだろうと私が危惧するカタカナ語を使用し、視聴者の耳から入れ込んでいるものの多くはテレビ局であり、そこに出演するまともに学校の勉強をしてこなかったとしか思えない芸人たちなのである。

私は既にその「カタカナ語をお使いになるのは妨げないし、ご自由に」と再三申し上げてきた。そして「それらが本当の英語とは全く別な言葉である」という例を120~130ほど例を挙げてきた。だが、当然の結末だと思うが、テレビ局などには一向に改心の跡は言うまでもなく、改善の兆しは全く見えてこないどころか、普及に全力を挙げている始末だ。

私は更に新着の外国語が我が国の言葉に紛れ込まされた際の主役を演じているのは、某通信社の「用語ハンドブック」だと聞いた記憶がある。では、その某社に前非を悔い改めて頂かない限り「カタカナ語の濫用」は止めようがないと些か諦めの境地である。

ここから先は関係官庁や斯界の権威者と認められている方々が「変えていこう」という方向に進まれるかだろうと思う。だが、それも望み薄だと考えている。何故ならば、既に現在の英語教育に携わっておられる方から私の改革案に対して「そのような非現実的で偏った教え方を誰がするのだ」とのご批判を頂戴したし、変更というか改革すればそう批判された方々の "job security" が問題になってくるのだから。

ここで少し憂慮すべき例を幾つか採り上げて、読者諸賢に少しでも危機感というか「おかしさ」を認識して頂こうという無駄な努力に入っていこう。先ずは「フリップ」から。これはテレビ局が創始者で画面に出す表乃至は図表をフリップ(flip)と称しているのだ。この言葉の何処を探しても「表」や「図表」の意味はない。Oxfordには”to turn into a different position with a sudden movement; to make ~ do this”となっている。ジーニアスには「ページ・カードをパットめくる」とある。即ち、「めくる」という動作だ。

1996年に私が某ラジオ局に使って頂くようになった時、プロデューサーに「まさかこの局ではフリップなどとは言わないでしょうね」と尋ねると「安心してよ。うちではチャンと“チャート”と言わせてあるから」と答えて貰えた。しかしながら、何時の間にかこれが世間に遍く普及して「フリップ」となってしまった。しかも、天下の代議士さんや参議院議員の方々も全国民の一部が聞いている国会中継でも、平気で「フリップを出して」などと曰う次第だ。

私は彼等は中学から大学または大学院まで行っている間に「正しい英語とは」を全く学んでこられなかったのだと痛感している。「選挙運動にそれほどかまけてこられたのだったのか」と疑っている。「フリップ」がおかしいと思わない知性に呆れている。あれは正しくは”flip chart”というものがあって、それは”large sheet of paper fixed at the top to a stand so that they can be turned over, used for presenting information at a talk or meeting”とOxfordに解説されている。

もっと解りやすく言えば大きなサイズの紙(業界では全判か全紙等というが)数十枚を天糊(製本用語で上部を糊付けすること)してあるもののことで、私は我が国では余り見かけた記憶がない。会議などでそこに用紙をフェルトペンなどで書き込んでから切り離して壁などに貼っておけば記録が残るのだ。尤も、パワーポイントだのという文明の利器が登場する前の会議の用具(用紙)だがね。

それを我が国の関係各位は何処でどう何を間違ったのか、前に出てきた言葉の”flip”を「紙のこと」だと思い込み、チャンとした学識経験者であるべき議員さんまでが「フリップ」と言うし、立派な番組の有識者のゲストも「フリップ」愛好者であることは、我が国の英語教育の輝かしくない成果であると断じる。英語(カタカナ語?)さえ使えば格好が良いと思い込むような程度の者を選ぶ民度はそれ以下ではないのか、英語教師の方々。

次は「セキュリティ」と「ノミネート」を。「セキュリティ」が酷すぎるカタカナ表記だとは何度も指摘してきた。”security”の発音記号は”sikjú(ə)rəti”で誰がどう読んでも「セキュアラティ」しかならないはずだ。元の動詞形の”secure”はカタカナ表記すれば「セキュアー」だろう。その「アー」に”r”が含まれているので、”ity”が付いて「セキュアラティ」となるのが当然だ。それを「セキュリティ」としたい気持ちは解るが、そこに何らの疑問を抱くことなく、嬉々として「セキュリティ」と呼称させるテレビ局の幹部と言わされているアナウンサーたちは学校で何にも学んでこなかったのかと問いたい。

最後に「ノミネート」も切り捨てておく。ピースという漫才なのかお笑いコンビなのか知らないが、その片割れの又吉というのが小説本を出して大当たりしたのは結構だと思う。しかし、三島賞は外れたが芥川賞の候補作に上がったそうだ。それは候補に推薦されたのであって「ノミネート」という必要はないと思う。私は何故に「候補に推薦された」という我が国の言葉を棄てて、ジーニアスには先ず「動詞」として出てくる”nominate”をカタカナ語にして使うのかと問いたい。

難しいことを言えば”nominate”には「推薦する」か「指名する」の意味はあるが、又吉の場合は推薦されたのであるから”He was nominated for 芥川賞.”と受け身であるべきなのだ。それを弁えずしていきなり「ノミネート」では無茶苦茶ではないか。しかも過去形であるべき。ここにも我が国の学校教育の英語の成果が垣間見えるではないか。

この他にも、これを使うことをおかしいとは思わないのかという珍妙なカタカナ語は幾らでもある。確か松坂大輔が言い出したと思う「リヴェンジ」も立派な誤用でありながらドンドン広まっている。”revenge”は基本的には他動詞であり、目的語(復讐する相手等)を必要とするが、単なる「仕返し」か「前回グラウンドに忘れ物をしたので取り返しに行く」という意味のことを言いたくて使われている。

ここまで書いてきたが、矢張り「トラブル」も入れておきたいと思わせられるほど濫用されているのが嘆かわしい。ジーニアスには「心配、苦労、悩みとそれぞれの種、厄介者」とあるが、今やテレビでも何でもこれら以外に「揉め事」や品質上の問題でも全て「トラブル」で括ってしまっているので、聞かされている方からずれば「何ものも特定していない言葉」としか聞こえないのだ。「君らは英和辞典すら持っていないのか」と尋ねたくなる代物だ。

「リヴェンジ」や「トラブル」の一言だけで終わらせては「日本語での表現力が低下するばかりではないかな」、カタカナ語擁護論者の方々よ。