公明党は「お詫び」を入れよと要望:
先程TBSの「ヒルオビ」とやらを見ておりましたところ、公明党は総理の談話に何としても「お詫び」を入れて貰いたいと要望し、これが最後通告だと言ったと報じられていました。しかも、平和を標榜する創価学会にとっては安保法制案はその趣旨に反するので、離党した者までいたというので、些か呆れております。そこには韓国からの介入もあり、中国からの侵略への反省を求めるが如き干渉があるとも解説されていました。
私はW社の製品においても我が国の細かく厳し過ぎる(”too demanding”等という表現が当たりますが)品質に対する要求基準を屡々満たせなかったために、お詫びせねばならぬ場面に何百回も遭遇しました。しかし、私は彼らアメリカ人はそれが自社の責任であると解りきっていても「申し訳ない」か「お詫び申し上げます」に相当する事をのっけから絶対に言はないと承知していましたから、分かの違いに不馴れな間は随分苦労したものです。
そこで遂に一計を案じて「解った。君らは謝罪する気はないようだが、我が国では潔く自らの罪・咎を認めて謝る事から入っていかないと、クレーム補償の次の段階の交渉に進めないのだ。故に、君らは何か勝手に適当な謝罪の如き台詞をなるべく客先の少しでも英語が解る人にも解らないような捻った表現で、モゴモゴ言って深く頭を下げていて貰いたい。後は私の通訳の技術で誠意ある謝罪の意を表して置くから」と説得しました。
具体的には、品質問題話し合いの交渉の席についた際に先ず真っ先にお詫びから入って、一切の言い訳や屁理屈と誤解されかねない弁解を絶対にしないことと、繰り返し繰り返し言い聞かせました。最後には「謝るのが怖ければ何でも良いから適当に言っていろ。後は俺に任せろ。悪いようにはしないから。兎に角何とかしてお詫びの意思を表して見せろ」とまで言いました。そして繰り返してこのような勧進帳のようなお詫び行脚をさせ続けました。
時にはある程度以上英語を聞いて理解する方がおられて苦境に追い込まれた事もありました。しかし、英語で謝罪の意を表現し誠意ある通訳?を続けた結果で、アメリカ人たちも解決の交渉を進めるためには寧ろお詫びから入るのが必要不可欠な条件だと認識し始めました。
更に、その次ぎに認識出来た事は「謝罪する事で速やかに問題となった製品を救う方法とか、補償の金額を決める基準の話し合いにまで事が進むようになる」と理解するに至りました。即ち、謝罪する事が無条件で全面的に責任を負わされる事にはならないと理解し始めたのです。ここまで来るのに記憶が正しければ、5年近くを要したのです。要するに、彼らの思考体系には「先ず謝罪から」という形はないということです。
この文化と思考体系は、これまでに私が見聞してきた限りではアジアの諸国も同じで、言うなれば潔くないのです。その文化の違いというか落差の大きさは経験してみない事には到底認識出来ないでしょう。しかも、私は彼等の文化と思考体系の中に放り込まれて、彼らのために我が国との難しい交渉事の矢面に立たされて、漸く経験的に「違いの大きさ」を理解出来たのです。
それは外国の大学等に留学されるとか海外に駐在されただけでは容易にその実態に触れる事が出来ないのではと考えます。そこまで謝罪を嫌う(=無限責任を負わされかねない事を回避する)文化があるとは、我が国では容易に想像がつかないと思うのです。
今だから告白できますが「そんなに謝りたくないのだったら『この野郎、細かい難癖ばかりつけやがってうるさい。本国なら無視する言い掛かりだぞ』とでも小声で言っていろ。俺が通訳の技術で誤魔化して誠意を以てお詫びして置くから」とまで言ってお詫びを装わせた事すらありました。
それなのに、公明党は安倍総理の70年談話に「お詫びの文言を入れよ」と迫っているそうです。そんなことでは、この先何十年経っても某国から付け込まれ何のかのと介入される事態は変わらないと危惧せざるを得ません。げに恐ろしきものは文化と思考体系の違いとそれを認識出来ていない事かと思っております。
先程TBSの「ヒルオビ」とやらを見ておりましたところ、公明党は総理の談話に何としても「お詫び」を入れて貰いたいと要望し、これが最後通告だと言ったと報じられていました。しかも、平和を標榜する創価学会にとっては安保法制案はその趣旨に反するので、離党した者までいたというので、些か呆れております。そこには韓国からの介入もあり、中国からの侵略への反省を求めるが如き干渉があるとも解説されていました。
私はW社の製品においても我が国の細かく厳し過ぎる(”too demanding”等という表現が当たりますが)品質に対する要求基準を屡々満たせなかったために、お詫びせねばならぬ場面に何百回も遭遇しました。しかし、私は彼らアメリカ人はそれが自社の責任であると解りきっていても「申し訳ない」か「お詫び申し上げます」に相当する事をのっけから絶対に言はないと承知していましたから、分かの違いに不馴れな間は随分苦労したものです。
そこで遂に一計を案じて「解った。君らは謝罪する気はないようだが、我が国では潔く自らの罪・咎を認めて謝る事から入っていかないと、クレーム補償の次の段階の交渉に進めないのだ。故に、君らは何か勝手に適当な謝罪の如き台詞をなるべく客先の少しでも英語が解る人にも解らないような捻った表現で、モゴモゴ言って深く頭を下げていて貰いたい。後は私の通訳の技術で誠意ある謝罪の意を表して置くから」と説得しました。
具体的には、品質問題話し合いの交渉の席についた際に先ず真っ先にお詫びから入って、一切の言い訳や屁理屈と誤解されかねない弁解を絶対にしないことと、繰り返し繰り返し言い聞かせました。最後には「謝るのが怖ければ何でも良いから適当に言っていろ。後は俺に任せろ。悪いようにはしないから。兎に角何とかしてお詫びの意思を表して見せろ」とまで言いました。そして繰り返してこのような勧進帳のようなお詫び行脚をさせ続けました。
時にはある程度以上英語を聞いて理解する方がおられて苦境に追い込まれた事もありました。しかし、英語で謝罪の意を表現し誠意ある通訳?を続けた結果で、アメリカ人たちも解決の交渉を進めるためには寧ろお詫びから入るのが必要不可欠な条件だと認識し始めました。
更に、その次ぎに認識出来た事は「謝罪する事で速やかに問題となった製品を救う方法とか、補償の金額を決める基準の話し合いにまで事が進むようになる」と理解するに至りました。即ち、謝罪する事が無条件で全面的に責任を負わされる事にはならないと理解し始めたのです。ここまで来るのに記憶が正しければ、5年近くを要したのです。要するに、彼らの思考体系には「先ず謝罪から」という形はないということです。
この文化と思考体系は、これまでに私が見聞してきた限りではアジアの諸国も同じで、言うなれば潔くないのです。その文化の違いというか落差の大きさは経験してみない事には到底認識出来ないでしょう。しかも、私は彼等の文化と思考体系の中に放り込まれて、彼らのために我が国との難しい交渉事の矢面に立たされて、漸く経験的に「違いの大きさ」を理解出来たのです。
それは外国の大学等に留学されるとか海外に駐在されただけでは容易にその実態に触れる事が出来ないのではと考えます。そこまで謝罪を嫌う(=無限責任を負わされかねない事を回避する)文化があるとは、我が国では容易に想像がつかないと思うのです。
今だから告白できますが「そんなに謝りたくないのだったら『この野郎、細かい難癖ばかりつけやがってうるさい。本国なら無視する言い掛かりだぞ』とでも小声で言っていろ。俺が通訳の技術で誤魔化して誠意を以てお詫びして置くから」とまで言ってお詫びを装わせた事すらありました。
それなのに、公明党は安倍総理の70年談話に「お詫びの文言を入れよ」と迫っているそうです。そんなことでは、この先何十年経っても某国から付け込まれ何のかのと介入される事態は変わらないと危惧せざるを得ません。げに恐ろしきものは文化と思考体系の違いとそれを認識出来ていない事かと思っております。