新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月1日 その2 櫻井俊新総務事務次官

2015-08-01 11:33:27 | コラム
高市総務相は「櫻井翔のお父さんと新聞に見出しがつくのは気の毒」と言った:

実態は「櫻井俊氏が新総務事務次官に任命されたのだったにも拘わらずだった」のだが。

高市総務相は新事務次官が「櫻井翔のお父さん」と先に言われるのはお気の毒」と言っていた。だが、我が国民を低俗というか低民度のミーハーと決めつけているマスメディアと宣伝広告会社の視点からすれば、そう言えば良く認識されると思ったのは当然ではないか。いえ、政治家というか議員の先生方もそのミーハーに助けられて当選出来たのではないのかな。

当方はこれまでに何度もジャのニーズを嫌っていると言ってきた。あのガキども(ではない年齢に達している者も数多くいるが)のAHO面と教養に欠けているかの如きご面相をテレビで見せつけられるとウンザリで、即刻チャンネルを変えている。あの悪趣味な衣装を着せてふしだらな髪型をした子供を養成して子弟の教育に害毒を流す組織を、テレビ局が恐れおののいている様は、我が国ならではの奇観である。

ジャニーズ事務所こそが、嘗て大宅壮一が「一億総HAKUCHI化」といみじくも喝破したメデイアの先端を行っている。あんなガキどもが現代の子供たちの価値観の基準になってしまったことがどれほど恐ろしいかが解っていない人たちが多過ぎないか。

幼少の頃からあの組織に入って跳んだり跳ねたりしていて(口パクだと批判される唱う真似をして)何時になれば正常な社会人としての常識が身につくのかとジャニーさんとやらに伺ってみたい衝動に駆られる。それを有り難がっているファンなる者たちはそれ以下ではないのかと危惧しているが。

私は新事務次官さんに疑問を感じる点が一つある。それは33歳にもなっているご子息に「翔」という流行り物としか言えない名前をおつけになった感覚というか根拠が何処にあるのかという点だ。現在のプロから高校までの運動選手の名簿を見ると「翔」単体が無数にいれば「翔平」、「翔太」、「翔人」、「翔大」等々がゾロゾロと出てくるではないか。当にこの面でも時代の先頭を走っておられた感すらある。

新事務次官のご活躍を祈念して終わる。


対米交渉術とは

2015-08-01 08:09:16 | コラム
私はContingency planの世界と交渉する為には何が必要かを問いたいのだ:

アメリカの大手紙パルプ林産物会社に20年以上も在籍し対日輸出を担当した経験から学んだ彼らの作戦というか交渉術の一端をあらためてご紹介します。これは何度か方々で語り且つ書いてきたことですが、我が国の文化と思考体系とは相容れないようで、未だに理解と認識が十分にされていないようだと感じます。

それは「彼らは重大な交渉の席に臨む際には本来の目標である案に加えて"contingency plan"を準備してくること」です。この英語の意味は「第2または第3の案を準備する」ということです。代案というような訳もあるかも知れませんが、玉砕戦法を採ることもなく、落としどころを探ることもせず、次善の策にも近いかも知れません。第1案が自社にとって最も有利なものであるのは疑いもありません。

私の経験では「日本側は当たって砕けろ」か「そこまで譲れば相手が納得するか」を探りに来ることが多かったのです。彼らは5,000マイルを妥協点を探る為に飛んでくることはしません。第1案が通らなければ、第2案で(フットボールで言う)同じだけのヤード数を稼ごうと目指して来るのです。この思考体系の下で20数年を過ごしましたから、マスコミがTPP交渉で「妥結が近い」などと観測記事を書くのは「異文化」に対して不勉強であると断じるのです。

このような彼らの思考体系と作戦はアメリカの一流の私立大学のビジネススクールで学んだ程度では直ちに経験出来ることではないようだと危惧しますし、経験上からも指摘します。極言すれば「彼らはゲーム感覚に近い感じで『これを言うことで失うものはない』という議論を展開します」が、これに対して「論争と対立」を怖れる我が国の方々は萎縮されてしまうのです。しかし、私が知る限りではこれに屈することなく彼らを論破された方が何人もおられました。

私が誤っているかも知れませんが「外務省にはそこまで戦えるだけの度胸がない方が偉くなっておられるのではないか」と思えてなりません。甘利大臣もそういう"contingency plan"を持って着席する連中と交渉されているとの強烈な認識がおありであろうと思いたいのですが。彼らの三段論法の思考体系を破る為には、早くから"debate"の教育を受けておく必要があると思うのです。その前にTOEIC等という我が国の至らざる英語教育の集大成の如き試験を忘れた教え方をすべきだと痛感しております。

我が国の英語教育では「思考体系と文化の違い」を全く等閑にしており、これは対外交渉を進める為には致命的な欠陥となっていると見えます。問題は「英語で如何に論旨を構築する力を養うか」にあるのです。この力をつけることと「ペラペラ」は全く別なことです。相手の思考体系を知らずして議論をするのは無謀ではないのか言っているのです。