新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月23日 その2 悲観論が危機感を語れば

2015-08-23 17:41:16 | コラム
「今ほど議員の質が低下している時期を知らない」:

これは昨22日に週間ニュース新書で多勢康弘が冒頭に言った事だ。私は同感であるとは言えるが、「何を今更したり顔で言うのか」と反感を覚えていた。There goes an old saying 「政治家に自分たち以上の器量を期待してはならない」と言うが、私は彼らほど無知でも無能でも無学でもないと固く信じて疑わない。それどころか、この”old saying”をそのままマスコミにも進呈したい思いすらある。

今国会で決着するであろう安保法制の審議は始まった時には、愚かな政治家を数多く集めた野党は安倍内閣が出してきた国家の命運を左右する重要な法案であると言う前にも、単なる反対のための反対と、安倍内閣引き摺り落とし策等々をかき集めて出来る限りの手段を講じてくるのは解りきっていた。そんな議員を選んだ我々の咎を反省すべきではないのか。

そして、予想通りに議論の本質を離れた揚げ足取りと、閣僚の表現不足を論っては審議の不充実を画策し、そこに強力な?マスコミの援護射撃を受けて「国民に対する法案説明不足、即理解不足」という確固たる虚構の成果を挙げた形に持って行ってしまった。

このマスコミの報じ方などは如何に彼らが無能であるかを問わず語りしている悪い(良い?)例に他ならないのが実態だ。国民の皆様は選挙で代議士や参議院議員を選んで彼らに国政を委託したのであって、法案を理解するのは歳費を頂戴して我々を代表している議員たちの仕事であって選挙民ではない。

私はマスコミは民主主義とは如何なるものかを未だに全く理解も認識も出来ていないと憤慨している。野党だろと与党だろうと、国民の皆様の代わりに国会で審議を尽くして安保法制を十二分に理解した上で、賛否何れかの票を投じるのか彼らに課された使命ではないか。それが民主主義であり多数決ではないのか。

それにも拘わらず、「国民の皆様が理解されましたか」というが如き愚かな質問を出して調査する(本来、アンケートというカタカナ語にはそういう意味は無い)マスコミの作為に溢れた行動が今日の「国民に対する法案説明不足が法案の問題だ」というあってはならない奇妙な事態を導き出してしまったのだ。そこにあれほどの高学歴と高職歴を有しながら、まるでその筋の連中の言い掛かりのような議論しかしない野党議員が大活躍され、その有様を如何ににも優れた政治活動の如くに扱うマスコミがいるのだからたまったものではない。

私が何度も論じ且つ指摘した来たことが「反対のための反対」に目がくらんだ議員とマスコミは「中国が景気がどう転ぼうと南進を続けて南シナ海辺りで止まればまだしも、その最終目的地(目的国?)が何処の国かを弁えていない連中が余りにも我が国の中に多過ぎる事態」は最早笑い事ではないところまで来ていると密かに本気で憂いている。それにも拘わらず、「60日成立」をすら阻止しかねない野党マスコミ連合(英語では”coalition”などと言うが)が意気盛んになる一方なのだ。

現在の世界の大国を見よ。側近の粛正も蠅もトラも叩かず、押し付けられたといわれる憲法の改正を意図され、国家の安全を図る法案を提出され、因縁ばかりつけてくる近隣の何ヶ国かとの関係改善まで図られている総理大臣を恰も稀代の悪者の如くに罵って、民主主義とは何であるかを70年経った今でも理解出来ていない国民を愚弄しあらぬ方角に誘導しようと努める(カタカナ語にすればミスリードしようとするとなるか)政治を生業とする愚かな連中を何とせねばなるまいと、私は心の底から心配しているのだ。

遺憾ながら、安保法制案反対の連中の「再び戦争に向かう」であるとか「子や孫を戦場に送らないように」であるとか「徴兵制度の再来」等という文言は低民度の一部の国民には心に響くし、訴える効果が出てしまっているのだ。これがどれほど愚かな議論であるかは「もしも戦場に行く者が出てくる場面があっても、それは自衛隊に自ら入った人たちに限定される」ではないか。

「自衛隊に入れば生命の危険がある」という誤った議論も出ているようだが、生命の危険は消防署員にも屡々発生する事態であり、街中で自動車や自転車を運転してすらも起きる事態ではないのか。この手の脅し文句を何の注釈も吹けずに報じるマスコミや政治家が、少なくとも私より上に位する器量や能力やや頭脳をお持ちであるとは思ってもいないし、思いたくもない。

しかしながら、結論をいえば、その手の政治家を選んでしまったのは我々国民であったことを忘れてはならないのだ。誤った報道の姿勢で国民をあらぬ方角に導きかねない伝え方をするマスコミを信じて此処まで来たのもまた我々国民なのである。無理を承知で希望を言えば、「今こそお国の為のみならず、自分の為にも政治と経済と世界の情勢を出来る限りの知恵を出して勉強すべき時が来たったのであると認識せよ」なのだ。

判断は貴方がするものであって、最早誤った判断をしたことを他人のせいにして良い時ではないのだ。過ちの結果とその責任は結局は自分に降りかかってくるだと知るべきだ。私はこれを政治家の皆様にも心底からご忠告申し上げたいのだ。「貴方たちは今や国家の存亡を危うくする知れない重大な局面で政治を担当していると認識せよ」と告げたい。私はこれが悲観論者の杞憂に終わることを切望して終わる。


「3日も入院していれば」の改訂版

2015-08-23 14:17:24 | コラム
各位

校正に不備があり、お詫びして訂正します。


>矢張り世界の変化は早かった:

20日(木)から22日まで国立国際医療研究センター病院に入院して検査を受けている間に、この世には矢張り予想を通り越した速度で変化が起きていた。順序など覚えている余裕もなかったが、中国経済の変動が株価の下落や為替の変動を生じさせていたかと思えば、北朝鮮がその本気度には疑わしさを残しても韓国と戦闘態勢に入るかの如き声明を発したし、タイのバンコクでは何処かの国から入り込んだ者どもが多くの犠牲者を出す爆弾テロを仕掛けて我が国民までを不安に陥れていたという具合だった。

入院中の何時だったかに総理の70年談話も発表されていたようだったが、病床にあっては詳細に触れる余裕もなく、またそもそもが談話発表不要論者だったので、北の方の2ヶ国からの反応も兎も角、全世界的から何らかの否定的な反響もなかったかの如くに聞こえたので、その点では「良かったではないか」程度の反応しか出来なかった。私は我が国の「謝罪の文化」は世界に通じる美徳ではないと確信しているので、一旦謝罪した虚け者が複数いた事が返す返すも悔やまれるのだ。

そこでその検査入院の3日間を振り返ってみると、20日は病院側の都合もあったのだろうが、09:30の到着後に午後からの大腸の内視鏡検査ではなくいきなり胃カメラの検査から開始と通告されて些か慌てた。だが、その変更のお陰で午後1時からだったかの甲子園野球の決勝戦が見られるようになった幸運もあった。しかし、当日は朝食抜きだったし、昼も夜も流動食では冷静な評論家の眼力も鈍りはしないかとやや不安だった。

ここであのマスコミ的と言うかテレビ的には手に汗握る大熱戦となった試合を論評する必要もあるまい。だが、あの優秀とされていた東海大相模高の小笠原という左投げの投手の将来には不安を感じざるを得ない、甲子園独特の問題点が見えていたのは残念だった。それは東海大相模高はもう一人の右投げの投手を擁して無残な連投を小笠原には強いずに済んでいたとはいえ、あの決勝戦の後半には威力が低下していたのは明らかで、私にはやや球速もある優れた素質を有する高校生程度に成り下がっていたかに見えた事実を指して批判するのだ。

言いたいことは、あの今年のような8月の暑さの中で連日野球をやらせてしかも100球以上も投げさせていれば、身体が出来上がっていない高校生にとっては当然と言って良いほど起きる体力低下であって、折角の素質を持った子供の(もしも本気で将来野球で身を立てていこうと考えているのだったならば)その出来上がっていない身体に鉋をかけて削り、将来性を損ないかねないような無謀な行為を強いたのだという意味である。そこを礼賛するNHKを始めとするマスコミも誤っていれば、高野連も出鱈目である。朝日は「商売になれば良い」と言うことしか100年も考えていたのかと思うと恐ろしい。

但し、彼らの世界では甲子園で「身を立て名を上げやよ励めよ」(この文句をどの歌から採ってきたかがお解りなのは余程の高齢者だろうが)最大の眼目であるようだから、それを部外から云々すること自体が無駄だと解っていて私は言っているのだ。しかし、あの小笠原君が9回に先頭打者として見事にホームランを打って勝利を90%以上も自軍に引っ張り込んだ気力と気迫と精神力は賞賛に値すると褒めておく。技術の上に精神力を鍛え上げてあれば、それが最後の勝利をもたらすのであって、それを見事に立証した監督さんの指導力にも「天晴れ」を差し上げておこう。

仙台育英のあそこまで頑張って一方的かと思わせた試合を一度は6対6の同点にまで持って行った気迫には準「天晴れ」をやっても良いとは思うが、如何せんあの高校の監督は良い素材ではある佐藤世那というキラキラ的な名前の右投げの投手の育て方を誤っていた。何処かのプロのスカウトが「柔軟な右手の使い方は良いがあれでは将来云々」と疑問符をつけていた点に賛成である。

私の見方では、あれでは結果的に「手投げ」であり「上半身の強さに頼った正統派ではない投手」になりかけてしまっている。素質の無駄遣いである。しかもアナウンサーと人畜無害のことしか言えない解説者が力説する優れた「フォークボール」を高校生の時点で投げすぎるのは、如何にも「甲子園で勝てる為にる小さく纏めた投手に育てよう」との思想があからさまに出ていて、私には好ましくない傾向としか見えなかったのは残念だった。

その晩には起きていられた時間内だけNHKのBSで岡崎慎司がドイツから転出していったUKの”Barclays Premier League”(プレミアリーグ、BPL)のサッカーを観ていた。念のために言っておけば”Barclays”とはスポンサーの名前で世界的な金融機関である由だ。私が凄いと思うのは何処が最高かは良く解らないが、自らを「最高」即ち”premier”なサッカーのリーグだと称している点だ。

実は、昭和20年に中学入学以前から旧制湘南中学の選手たちの間に入れて頂いて親しんできた蹴球(=soccer)だが、ラグビーにせよ我がサッカーにもせよ、UK系の球技には遺憾ながらアメリカの系の持つ、イヤ提供するスポーツの面白さというかマスコミ的で通俗的な表現で言えば「ドラマ」がなければ、「意外な展開」の機会が少ないのだ。極めて実直にきめ細かく築き上げていく質実剛健な点が特色であって、所謂「面白さがないというのが玉に瑕だと思うが。

しかしながら、その点があってもアメリカ人とは気質を大いに異にする欧州人と南米人には歓迎され、よくぞあれほど興奮し感激しながらご贔屓の地元ティームを応援できるものだと感心させられる魅力があるようだ。あの晩も確かに世界最高水準にある者どもを全世界から集めた質の高さを認めるに吝かではない技術水準は解ったが、遺憾ながら小笠原君が9回表に放ったホームランの如き興奮も感動もスリル(カタカナ語だが、この方が通じやすいとだろうと決めたので敢えて使った)を期待できる内容の競技ではないことが、70有余年を経た今になってあらためて認識出来た次第だった。

私は決してサッカーが見ていて面白くいない競技だと言っているのではない。しかし、BPLの技術水準にまで至っていれば確かに随所に「流石」と唸らせられるような、お素人衆(失礼)には解らない美技も妙技もあるが、それを認識出来るだけのサッカーの理解力を備えたファンが我が国にどれほどおられるだろうか。

しかもあの足を使う球技の欠陥の一つに「点が入らない」という問題がある。点が入るまでは言わばジッと耐えていなければならないのだ。それと対比すればフットボールでもバスケットボールでもアメリカ系の球技には一発逆転もあれば知ろうとにも解る「大ファインプレー」が随所で発生し、観る者を喜ばせてくれる特徴がある。敢えて一例を挙げれば、フットボールでの「キックオフリターンのタッチダウン」などはフットボールを良く知らないで見ても解るほど凄さがある。

「国民性の違い」と言い切ってしまえばそこで話が終わるが、私はその辺りの違いがここに至って云々され始めた女子のなでしこリーグの集客能力の低下の原因の一つがあると思っている。私自身が落ち着いて考えれば、もしも特等席と往復の送迎つきの観戦の機会を与えられても現在の病身を押してまでJリーグのサッカーを観に行く気力は無い。寧ろ、あれほど嫌いであっても巨人の野球を自宅でテレビ観戦する方を採るだろう。

最後に付け加えれば、清宮克幸氏がご子息に野球を選ばせた理由を「ラグビーは金にならないから」と言われたことが決定的ではないのかと言って終わりたい。誠に残念な終わり方だが、私はこれが現実だと思っている。

3日も入院していれば

2015-08-23 11:04:28 | コラム
矢張り世界の変化は早かった:

20日(木)から22日まで国立国際医療研究センター病院に入院して検査を受けている間に、この世には矢張り予想を通り越した速度で変化が起きていた。順序など覚えている余裕もなかったが、中国経済の変動が株価の下落や為替の変動を生じさせていたかと思えば、北朝鮮がその本気度には疑わしさを残しても韓国と戦闘態勢に入るかの如き声明を発したし、タイのバンコクでは何処かの国から入り込んだ者どもが多くの犠牲者を出す爆弾テロを仕掛けて我が国民までを不安に陥れていたという具合だった。

入院中の何時だったかに総理の70年談話も発表されていたようだったが、病床にあっては詳細に触れる余裕もなく、またそもそもが談話発表不要論者だったので、北の方の2ヶ国からの反応も兎も角、全世界的から何らかの否定的な反響もなかったかの如くに聞こえたので、その点では「良かったではないか」程度の反応しか出来なかった。私は我が国の「謝罪の文化」は世界に通じる美徳ではないと確信しているので、一旦謝罪した虚け者が複数いた事が返す返すも悔やまれるのだ。

そこでその検査入院の3日間を振り返ってみると、20日は病院側の都合もあったのだろうが、09:30の到着後に午後からの大腸の内視鏡検査ではなくいきなり胃カメラの検査から開始と通告されて些か慌てた。だが、その変更のお陰で午後1時からだったかの甲子園野球の決勝戦が見られるようになった幸運もあった。しかし、当日は朝食抜きだったし、昼も夜も流動食では冷静な評論家の眼力も鈍りはしないかとやや不安だった。

ここであのマスコミ的と言うかテレビ的には手に汗握る大熱戦となった試合を論評する必要もあるまい。だが、あの優秀とされていた東海大相模高の小笠原という左投げの投手の将来には不安を感じざるを得ない、甲子園独特の問題点が見えていたのは残念だった。それは東海大相模高はもう一人の右投げの投手を擁して無残な連投を小笠原には強いずに済んでいたとはいえ、あの決勝戦の後半には威力が低下していたのは明らかで、私にはやや球速もある優れた素質を有する高校生程度に成り下がっていたかに見えた事実を指して批判するのだ。

言いたいことは、あの今年のような8月の暑さの中で連日野球をやらせてしかも100球以上も投げさせていれば、身体が出来上がっていない高校生にとっては当然と言って良いほど起きる体力低下であって、折角の素質を持った子供の(もしも本気で将来野球で身を立てていこうと考えているのだったならば)その出来上がっていない身体に鉋をかけて削り、将来性を損ないかねないような無謀な行為を強いたのだという意味である。そこを礼賛するNHKを始めとするマスコミも誤っていれば、高野連も出鱈目である。朝日は「商売になれば良い」と言うことしか100年も考えていたのかと思うと恐ろしい。

但し、彼らの世界では「甲子園で身を立て名を上げやよ励めよ」が最大の眼目であるようだから、それを部外から云々すること自体が無駄だと解っていて私は言っているのだ。しかし、あの小笠原君が9回に先頭打者として見事にホームランを打って勝利を90%以上も自軍に引っ張り込んだ気力と気迫と精神力は賞賛に値すると褒めておく。技術の上に精神力を鍛え上げてあれば、それが最後の勝利をもたらすのであって、それを見事に立証した監督さんの指導力にも「天晴れ」を差し上げておこう。

仙台育英のあそこまで頑張って一方的かと思わせた試合を一度は6対6の同点にまで持って行った気迫には準「天晴れ」をやっても良いとは思うが、如何せんあの高校の監督は良い素材ではある佐藤世那というキラキラ的な名前の右投げの投手の育て方を誤っていた。何処かのプロのスカウトが「柔軟な右手の使い方は良いがあれでは将来云々」と疑問符をつけていた点に賛成である。

私の見方では、あれでは結果的に「手投げ」であり「上半身の強さに頼った正統派ではない投手」になりかけてしまっている。素質の無駄遣いである。しかもアナウンサーと人畜無害のことしか言えない解説者が力説する優れた「フォークボール」を高校生の時点で投げすぎるのは、如何にも「甲子園で勝てる為にる小さく纏めた投手に育てよう」との思想があからさまに出ていて、私には好ましくない傾向としか見えなかったのは残念だった。

その晩には起きていられた時間内だけNHKのBSで岡崎慎司がドイツから転出していったUKの”Barclays Premier League”(プレミアリーグ、BPL)のサッカーを観ていた。念のために言っておけば”Barclays”とはスポンサーの名前で世界的な金融機関である由だ。私が凄いと思うのは何処が最高かは良く解らないが、自らを「最高」即ち”premier”なサッカーのリーグだと称している点だ。

実は、昭和20年に中学入学以前から旧制湘南中学の選手たちの間に入れて頂いて親しんできた蹴球(=soccer)だが、ラグビーにせよ我がサッカーにもせよ、UK系の球技には遺憾ながらアメリカの系の持つ、イヤ提供するスポーツの面白さというかマスコミ的で通俗的な表現で言えば「ドラマ」がなければ、「意外な展開」の機会が少なく、極めて実直にきめ細かく築き上げていく質実剛健な点が特色であって、所謂「面白さ」しかないというのだった。

しかしながら、その点があってもアメリカ人とは気質を大いに異にする欧州人と南米人には歓迎され、よくぞあれほど興奮し感激しながらご贔屓の地元ティームを応援できるものだと感心させられる魅力があるようだ。あの晩も確かに世界最高水準にある者どもを全世界から集めた質の高さを認めるに吝かではない技術水準は解ったが、遺憾ながら小笠原君が9回表に放ったホームランの如き興奮も感動もスリル(カタカタ語だが、この方が通じやすいとだろうと決めたので敢えて使った)を期待できる内容の競技ではないことが、70有余年を経た今になってあらためて認識出来た次第だった。

私は決してサッカーが見ていて面白くいない競技だと言っているのではない。しかし、BPLの技術水準にまで至っていれば確かに随所に「流石」と唸らせられるような素人には(失礼)解らない美技も妙技もあるが、それを認識出来るだけのサッカーの理解力を備えたファンが我が国にどれほどおられるだろうか。

しかもあの足を使う球技の欠陥の一つに「点が入らない」という問題がある。点が入るまでは言わばジッと耐えていなければならないのだ。それと対比すればフットボールでもバスケットボールでもアメリカ系の球技には一発逆転もあれば知ろうとにも解る「大ファインプレー」が随所で発生し、観る者を喜ばせてくれる特徴がある。敢えて一例を挙げれば、フットボールでの「キックオフリターンのタッチダウン」などはフットボールを良く知らないで見ても解るほど凄さがある。

「国民性の違い」と言い切ってしまえばそこで話が終わるが、私はその辺りの違いがここに至って云々され始めた女子のなでしこリーグの集客能力の低下の原因の一つがあると思っている。私自身が落ち着いて考えれば、もしも特等席と往復の送迎つきの観戦の機会を与えられても現在の病身を押してまでJリーグのサッカーを観に行く気力は無い。寧ろ、あれほど嫌いであっても巨人の野球を自宅でテレビ観戦する方を採るだろう。

最後に付け加えれば、清宮克幸氏がご子息に野球を選ばせた理由を「ラグビーは金にならないから」と言われたことが決定的ではないかと言って終わりたい、誠に残念な終わり方だが、私はこれが現実だと思っている。