遠い昔の事のような気もするが8年前の出来事だった:
あの日のあの時は在職中の最大の取引先のグループ会社の社長さんだった方お二人と、ここ百人町の大久保通りの風月堂の2階で楽しく談笑していた。そこにグラグラと揺れ出したと思った途端に、未だ嘗て経験したこともない凄まじいばかりの激しくも恐ろしい揺れが来て、店内の装飾品だった大きな花瓶が加湿器と共に音を立てて倒れ「地震だ」と誰彼となく叫んでテーブルの下に隠れようとしたが、そんなことで許してはくれそうもない建物ごと壊れてしまうのではないかと怖れたほどの大揺れだった。
その激震が何秒続いたかも解らなかったが、静まったと同時に何人いたかも解らないお客たちは、何の問題もなく通行が可能だった階段を一斉に駆け下りて避難していった。我々3人は最年少だった元社長氏が「直ぐに外に出てはいけない。窓ガラスが壊れて降ってくるかも知れない危険がある」と残る2名を押し止めて、恐らく最後の脱出者となったと記憶する。その際に他のお客たちと違っていた点は、警告を発した方はチャンと伝票を掴んで階段を駆け下りていたことだった。
幸いにして風月堂の窓ガラスは割れておらず地上での安全は確保されたが、大久保通りは逃げ惑う人々で大混乱の様子だった。そこから見える山手線の高架には電車があらぬ所で停まっているようにも見えた。お互いの無事が確認できた時点で我々が先ずやったことは、風月堂の1階に戻って支払いを済ませることだった。店員に念の為に確認してみると支払いに戻ってきたのは我々のグループだけだったようだ。今にして思えば「あの恐ろしい状況では悪意がなくても、そのまま逃げるだろうな」となるほどの激震だった。
風月堂で聞かされたことは震度が7という誰もが経験したことにない揺れだった。その状態では、確かその時点で最早携帯電話は通じておらず、何処にも連絡できない状態だった。我が家はそこから徒歩6分の距離なので取り敢えずはそこまで戻って、室内にいたはずの家内にどのような報道があったか確認しようとなった。だが、鉄道がどうなっているかも不明な状態で、お客人たちは「大丈夫だろうから」とお引き留めした私を振り切って横浜と八王子に向かって帰って行かれた。
その帰宅のご苦労は大変なものだったと後で伺ったが、あれほども大揺れを経験してもまさか電車が動かなくなるまでの大地震だったとは考えにくかったようである。我が25階建てのアパートは築24年ほどにはなっていたが、我が家の13階には写真立てが倒れた程度で被害はなく、全体的に無事だったのは良かったと思っていた。それでも、3基あるエレベーターは当然のように停止していたので、老化してしまった現在にあの地震が起きていたら、階段を歩いて上がるのを諦めていただろうと思っている。
あの地震が東北地方にあれほどの被害をもたらしたと知ったのは、もう余震も来ないだろうと見極めがついた後で、何とか他の居住者たちと励まし合いながら非常階段を上って我が家に辿り着いてテレビを見られるようになってからのことだった。あの大地震と津波の被害者の方々のご冥福をお祈りして回顧談を終わりたい。
あの日のあの時は在職中の最大の取引先のグループ会社の社長さんだった方お二人と、ここ百人町の大久保通りの風月堂の2階で楽しく談笑していた。そこにグラグラと揺れ出したと思った途端に、未だ嘗て経験したこともない凄まじいばかりの激しくも恐ろしい揺れが来て、店内の装飾品だった大きな花瓶が加湿器と共に音を立てて倒れ「地震だ」と誰彼となく叫んでテーブルの下に隠れようとしたが、そんなことで許してはくれそうもない建物ごと壊れてしまうのではないかと怖れたほどの大揺れだった。
その激震が何秒続いたかも解らなかったが、静まったと同時に何人いたかも解らないお客たちは、何の問題もなく通行が可能だった階段を一斉に駆け下りて避難していった。我々3人は最年少だった元社長氏が「直ぐに外に出てはいけない。窓ガラスが壊れて降ってくるかも知れない危険がある」と残る2名を押し止めて、恐らく最後の脱出者となったと記憶する。その際に他のお客たちと違っていた点は、警告を発した方はチャンと伝票を掴んで階段を駆け下りていたことだった。
幸いにして風月堂の窓ガラスは割れておらず地上での安全は確保されたが、大久保通りは逃げ惑う人々で大混乱の様子だった。そこから見える山手線の高架には電車があらぬ所で停まっているようにも見えた。お互いの無事が確認できた時点で我々が先ずやったことは、風月堂の1階に戻って支払いを済ませることだった。店員に念の為に確認してみると支払いに戻ってきたのは我々のグループだけだったようだ。今にして思えば「あの恐ろしい状況では悪意がなくても、そのまま逃げるだろうな」となるほどの激震だった。
風月堂で聞かされたことは震度が7という誰もが経験したことにない揺れだった。その状態では、確かその時点で最早携帯電話は通じておらず、何処にも連絡できない状態だった。我が家はそこから徒歩6分の距離なので取り敢えずはそこまで戻って、室内にいたはずの家内にどのような報道があったか確認しようとなった。だが、鉄道がどうなっているかも不明な状態で、お客人たちは「大丈夫だろうから」とお引き留めした私を振り切って横浜と八王子に向かって帰って行かれた。
その帰宅のご苦労は大変なものだったと後で伺ったが、あれほども大揺れを経験してもまさか電車が動かなくなるまでの大地震だったとは考えにくかったようである。我が25階建てのアパートは築24年ほどにはなっていたが、我が家の13階には写真立てが倒れた程度で被害はなく、全体的に無事だったのは良かったと思っていた。それでも、3基あるエレベーターは当然のように停止していたので、老化してしまった現在にあの地震が起きていたら、階段を歩いて上がるのを諦めていただろうと思っている。
あの地震が東北地方にあれほどの被害をもたらしたと知ったのは、もう余震も来ないだろうと見極めがついた後で、何とか他の居住者たちと励まし合いながら非常階段を上って我が家に辿り着いてテレビを見られるようになってからのことだった。あの大地震と津波の被害者の方々のご冥福をお祈りして回顧談を終わりたい。