新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

何で英語やらせるの?

2019-03-28 16:26:46 | コラム
何で小学校から英語を:

私は小学校や幼稚園で英語を教えようとすることに長い間反対を表明してきた。だが、政府なのか文科省なのか知らないが、遂に小学校の低学年の頭が柔らかいうちから教え始めると言い出していたかと思えば、この度は小学校6年生の英語の教科書が検定を通ったという報道があった。「もう勝手にやってくれ」という以外の言葉を知らない。私が昭和20年即ち西暦1945年に優れた英語教育で知られていた湘南中学ですら、入学後間もなくで1年生の中に多数の英語嫌いが出ていた。彼らは英語の時間を「イヤ語」と読んで嫌っていた。

私は現在の中学や小学校で当時の湘南中学ほどの優れた教え方が出来ているか否かは知らないが、政府か文科省は「早期に英語嫌いを養成しない」という確固たる教育法を確立したという自信があるのだろうかと訊いてみたくなる。

念の為に申し上げておくと掲題の「何で英語やらせるの?」は嘗て大いに評判となった中津燎子氏の著書「何で英語やるの?」のパロディである。私には何故に英語を子供の頃から教えようとするのかを全く理解できないので、これまでに何度も批判してきた。だが、教科書までが出来たと聞いてあらためて「幼児からの英語教育は無駄で且つ無益論」を展開してみようと思い立った次第だ。辞めろという根拠は数多あるが、ここには順序不同で述べていこうと思う。

*何の目的で何を目標に設定したのか:
この点では何度も指摘して来たことで、如何なる水準の英語を教えようというのかということと、海外に出て英語で思うままに自分の意志なり意図を表現できるような水準(英語で言えば“I know how to express myself in English.”になるか)を万人に目指させようというのかという疑問である。即ち、アメリカで言えば「支配階層である大企業の幹部たちと自由自在に議論が出来る所までに持って行こうというのか」という疑問だ。この次元に達する必要がある英語を身につけて何処で活かそうというのかということだ。先ず一般人がそういう場面に出会うことは生涯ないだろう。

では、総合商社なり大手メーカーに職を得て海外に進出して大いに実績を挙げるようなビジネスの世界で成功しようとか、理工系の技術者として海外で研究員として研鑽して実績を挙げようとしたいのか、あるいは海外に旅行に出て空港やホテルで単独でチェックインもアウトも出来て買い物も問題なくやってみたいという程度か、英語の書物を翻訳本ではなく原書で読みこなしたいとか、あるいは将来は英語教師として次世代の養成に努めたいとか、ハッキリとした目的と目標を定めずにか与えられずに英語を勉強してどうするという疑問だ。

私は我が国は世界に希な日本語で如何なる事を学ぶのにも不自由しないような書物が手に入る先進国であるから、英語を介しての勉強をしないで済むという恵まれた環境が整っているのだ。それ故に、万人が高い次元までの英語を身につけずに済む国なのだ。外国人に道を尋ねられて答えられる程度の英語力を身につけても、英語を母国語とする者たちとの意思の疎通は愚か、ビジネスでの交渉など出来る訳がないのだ。私は思いかけずアメリカの会社に転進してしまったが、そういう環境で馘首されずにリタイヤーできたような英語を習得しても、我が国の何処で活かそうというのか。

*英語の学び方と教え方:
ご承知だと思うが、私は現在までの我が国の英語教育は不発だと思っている。それを最も端的に表現したのが、1990年頃だったと記憶するが、ある英語教育関連の討論会で「我が国の教育法では何時まで経っても話せるようにならない」と非難する発言に対して、高校の英語教師と名乗った女性が「我々は英語が話せるようになるために教えていない。生徒たちを5段階で評価できるように出来るような英語を教えているのだ。故に、話せるようにならないという批判は不適切だ」と、堂々と切り返した姿勢には寧ろ「正直である」と感服した。

それは「我が国の学校教育では生きた英語を教えているのではなく『科学として英語』を数学のように教えているのであって、ペラペラと話せるような軽薄な生徒を養成しているのではないのだ」という意味だ。何処まで行っても科学なのだからTOEICだの英検などのような試験での成績が重要になってくるのだとみている。もう一つ例を挙げておけば、我が社の技術サービスマネージャーが大阪の高校3年の教科書を見た時に驚嘆して「日本では高校の頃から英文学者を養成しようとしているのか。アメリカの高校の国語の教科書でここまで難解な文学書を教科書には採用していない」と叫んだのだった。

私は自慢話と思う方はそのように受け止められて結構だが、中学1年から大学の英文学科を終えるまでに英語の試験で90点を切ったことは2回あっただけだ。それも、これまでに繰り返してきた「英語の教科書の音読を意味が解るまで繰り返し、1冊まるごと暗記と暗唱が出来るようになるまで10回でも20回でも、100回でも繰り返して音読すること、単語帳は一切作らずに解らないか知らない単語が出てきたらその度毎に辞書を引くこと、単語の使い方は文章のまま(流れの中で)で覚えておき、必要に応じて適当に言葉を入れ替えれば応用が利く」という方法で高校3年まで押し通した。文法は暗記・暗唱の中で覚えられたし理解できたのだった。文法的に正しい文章を暗記してあれば、間違った文章は口から出てきなくなるのだ。

私の勉強法で誰にも出来ない有利な点があったとすれば、それは中学1年の終わり頃からGHQの秘書だった方に極めて次元が高い英語で話すことを厳しく教えて頂けたことがあると思う。それならば、子供の頃から会話を教えれば良いのではという意見が出てきそうだが、私を教えて下さった秘書の方の英語は、アメリカの会社に転進して解ったことだが、支配階層にも十分に通用する高い次元にあるものだった。ここでの問題点は「教えられている方が、教えているnative speakerの英語が支配階層のそれか、下層階級のものかは判断できない」ということだ。

いきなり山形県に入って住んでしまった為に山形訛りの日本語を覚えた例があれば、関西弁を覚えてしまったアメリカの女性もおられた。日本の児童や生徒がアメリカの南部訛りや、UKのLondon Cockneyを聞いて、「これを学ぶべきではない」と忌避できるのか。いえ、それどころか我が国にそういう訛りや方言を聞き分けられる英語力を備えた方がどれほどいるのかという疑問もある。それどころではなく、ある次元まで行けば「相互の文化と思考体系の相違」という谷間に落ち込んで深刻に悩まねばならない時もやってくるのだ。

我が国の一般人がそこまでのことを学ぶ必要があるとは思えないし、そこまでのことを経験して高校や大学は言うに及ばず社会人までに教えられる人がどれほどいるかという疑問もある。そこまでのことを教えられる人たちはTOEICがどうのという世界から出た方々ではないと、経験上も認識している。

一寸視点をずらした結論めいたことを言えば、最近著しく増えた日本語を自在に操る外国人たちは大学であれ何処であれ、日本語を6年も乃至はそれ以上の期間勉強されたのではない例が多すぎる。では、一体全体アメリカの大学などではどのように外国語を教えているかを、腰を据えて調査してから小学校の低学年から教ええることを再検討したらどうだろう。10年ほど前に出会ったオレゴン大学で2年間日本を学んだだけのアメリカの青年は、某有名私立大学の(日本語の)授業に十分ついて行けているとと胸を張っていた。