電気自動車への転換が重要だそうだ:
「重要だそうだ」と言っただけで、私には「それほど重大で何としても成し遂げるべき対策か否か」などが解るものではない。このような地球の温暖化防止を考えるときに、以下に申し上げるように「犬が尻尾を追いかけてグルグル回っているのと同じでは」という気がするのは何故だろう。
だが、報道機関によれば「アメリカにおける電気自動車(EV)の最大手であるテスラが、ハーツレンタカーから10万台を受注したことで時価総額が1兆ドルを超えて、我らのトヨタ自動車を追い越した」と大騒ぎである。EUでは2035年までだったかにEVのみにすると決めたとか聞いている。結構なことなのだろうと思う。来月だったかのCOP26に岸田総理は出席されると決められたそうだ。小泉前環境大臣は環境浄化の一対策として、レジ袋の有料化を残された。あれもこれも環境保護対策である。
私は1994年1月までの在職中に、アメリカと我が国での紙パルプ林産物業界に対する逆風とも言いたい色々な環境問題とその保護対策に翻弄されてきた。最も解りやすい例は、未だに「ペーパーレス化」を推進しておられる業種や会社があるように「紙パルプ林産物産業界は森林を乱伐して環境を破壊しているだけでなく、パルプと紙の製造工程で大気汚染をしている」かのように思われているのだ。そこで、使用済みの古紙を回収し再生することは、環境保護と浄化に貢献すると固く信じておられる方々は多いのだ。
これに対して反論するのは飽きた。だが、元中部大学教授の武田邦彦氏は「古紙を回収し再生する過程では膨大なエネルギーを浪費しているので、経済的には大したメリットはなく、環境保護にも寧ろ逆効果だ」と指摘されている。紙パルプ林産物業界出身者としては極めて尤もな議論であると解る。
武田邦彦氏の主張を裏付ける経験談を敢えて再録してみよう。我がWeyerhaeuserの事業部では環境問題華やかなりし時に、ワシントン州知事の「使用済みの牛乳パックと紙カップを回収再生して製紙原料に充てて環境保護に貢献せよ」との強力な要望の下に、工場内の古紙再生装置(Pulper)を活かすべく、隣のオレゴン州をも含めて先ず回収作業から入った。この回収・再生の業務の前提にあることは「パルパーを1日24時間、365日回していないことには採算は採れない」点なのだ。そこには、今までになかった人員を4直3交代で揃えるからという事まであるのだ。
その為に、直ちに生じた問題は「ワシントン・オレゴンの2州だけでの回収ではパルパーを回すだけの使用済みのパックもカップも回収できなかった」ということ。そこで内陸のアイダホー州や遙か南部のカリフォルニア州の北部までトラックを走らせねばならなくなった。だが、それでも不十分だった。副社長は州知事に「絶対に経営的に成り立たない事業であるとの前提で取りかかる」と断ってあった。結果として知事に「我々は多額のトラック運賃を再生していたことになったので、事業を辞めます」と申し出で即座に了解させて終わった。
古紙の回収・再生は良いことなのは間違いない。だが、回収には人件費も輸送費も保管料もかかってくるのだ。そして再生の工程ではエネルギー(電力)も消費されるのだ。その再生された原料を同じ工場内で紙に再生産できれば良いが、他社に販売して輸送すれば運賃が発生するという寸法である。武田邦彦氏はこういう点を指摘しておられたのだ。いや、我が副社長がワシントン州知事に申し入れて断念させた内容と全く同じである。
目をEVに転じてみよう。私には全く具体的なことは解らないが、EVというからには電気で動いている自動車なのだろう。電池を積んで走っていると聞くが、その電池でも充電の必要があるらしく、ガソリンスタンドならぬ電気スタンド(屁理屈を言わせて貰えば「電気ステーション」だと思うが)をそこかしこで見かける。論旨を飛躍させるのかも知れないが、そのスタンドで使う電力は何処かで原発だけではない火力か、新規に投資が始まった高価な何とか光パネルで発電されたものではないのか。第一に自動車生産にもエネルギーも人件費もかかっているのでは。
エイヤッとばかりに言えば「EVによってガソリン車が出していた排気ガスはなくなっても、その電力を供給する発電が火力では完全に排気ガスを制御できるのかな」となって、武田邦彦氏の主張である「古紙再生が必ずしも環球改善か保護に貢献しない」に戻ってしまうのではないだろうか。勝手なことを言えば「電池を生産する過程でもエネルギーは消費され、電力だって必要なのではないのかな」となってしまうのだ。また、人件費だったかかるだろうと思うが、何れはAIかロボットで自動化すると言われそうだ。
私には良く解らないが、地球温暖化の防止と環境保護と改善という大目的のために採られる手段は、何となく堂々巡りというか、英語に言う“head chasing the tail”のような気がしてならないのだ。私の考え方は何処かで方向を見失ってしまったのだろうか。
「重要だそうだ」と言っただけで、私には「それほど重大で何としても成し遂げるべき対策か否か」などが解るものではない。このような地球の温暖化防止を考えるときに、以下に申し上げるように「犬が尻尾を追いかけてグルグル回っているのと同じでは」という気がするのは何故だろう。
だが、報道機関によれば「アメリカにおける電気自動車(EV)の最大手であるテスラが、ハーツレンタカーから10万台を受注したことで時価総額が1兆ドルを超えて、我らのトヨタ自動車を追い越した」と大騒ぎである。EUでは2035年までだったかにEVのみにすると決めたとか聞いている。結構なことなのだろうと思う。来月だったかのCOP26に岸田総理は出席されると決められたそうだ。小泉前環境大臣は環境浄化の一対策として、レジ袋の有料化を残された。あれもこれも環境保護対策である。
私は1994年1月までの在職中に、アメリカと我が国での紙パルプ林産物業界に対する逆風とも言いたい色々な環境問題とその保護対策に翻弄されてきた。最も解りやすい例は、未だに「ペーパーレス化」を推進しておられる業種や会社があるように「紙パルプ林産物産業界は森林を乱伐して環境を破壊しているだけでなく、パルプと紙の製造工程で大気汚染をしている」かのように思われているのだ。そこで、使用済みの古紙を回収し再生することは、環境保護と浄化に貢献すると固く信じておられる方々は多いのだ。
これに対して反論するのは飽きた。だが、元中部大学教授の武田邦彦氏は「古紙を回収し再生する過程では膨大なエネルギーを浪費しているので、経済的には大したメリットはなく、環境保護にも寧ろ逆効果だ」と指摘されている。紙パルプ林産物業界出身者としては極めて尤もな議論であると解る。
武田邦彦氏の主張を裏付ける経験談を敢えて再録してみよう。我がWeyerhaeuserの事業部では環境問題華やかなりし時に、ワシントン州知事の「使用済みの牛乳パックと紙カップを回収再生して製紙原料に充てて環境保護に貢献せよ」との強力な要望の下に、工場内の古紙再生装置(Pulper)を活かすべく、隣のオレゴン州をも含めて先ず回収作業から入った。この回収・再生の業務の前提にあることは「パルパーを1日24時間、365日回していないことには採算は採れない」点なのだ。そこには、今までになかった人員を4直3交代で揃えるからという事まであるのだ。
その為に、直ちに生じた問題は「ワシントン・オレゴンの2州だけでの回収ではパルパーを回すだけの使用済みのパックもカップも回収できなかった」ということ。そこで内陸のアイダホー州や遙か南部のカリフォルニア州の北部までトラックを走らせねばならなくなった。だが、それでも不十分だった。副社長は州知事に「絶対に経営的に成り立たない事業であるとの前提で取りかかる」と断ってあった。結果として知事に「我々は多額のトラック運賃を再生していたことになったので、事業を辞めます」と申し出で即座に了解させて終わった。
古紙の回収・再生は良いことなのは間違いない。だが、回収には人件費も輸送費も保管料もかかってくるのだ。そして再生の工程ではエネルギー(電力)も消費されるのだ。その再生された原料を同じ工場内で紙に再生産できれば良いが、他社に販売して輸送すれば運賃が発生するという寸法である。武田邦彦氏はこういう点を指摘しておられたのだ。いや、我が副社長がワシントン州知事に申し入れて断念させた内容と全く同じである。
目をEVに転じてみよう。私には全く具体的なことは解らないが、EVというからには電気で動いている自動車なのだろう。電池を積んで走っていると聞くが、その電池でも充電の必要があるらしく、ガソリンスタンドならぬ電気スタンド(屁理屈を言わせて貰えば「電気ステーション」だと思うが)をそこかしこで見かける。論旨を飛躍させるのかも知れないが、そのスタンドで使う電力は何処かで原発だけではない火力か、新規に投資が始まった高価な何とか光パネルで発電されたものではないのか。第一に自動車生産にもエネルギーも人件費もかかっているのでは。
エイヤッとばかりに言えば「EVによってガソリン車が出していた排気ガスはなくなっても、その電力を供給する発電が火力では完全に排気ガスを制御できるのかな」となって、武田邦彦氏の主張である「古紙再生が必ずしも環球改善か保護に貢献しない」に戻ってしまうのではないだろうか。勝手なことを言えば「電池を生産する過程でもエネルギーは消費され、電力だって必要なのではないのかな」となってしまうのだ。また、人件費だったかかるだろうと思うが、何れはAIかロボットで自動化すると言われそうだ。
私には良く解らないが、地球温暖化の防止と環境保護と改善という大目的のために採られる手段は、何となく堂々巡りというか、英語に言う“head chasing the tail”のような気がしてならないのだ。私の考え方は何処かで方向を見失ってしまったのだろうか。