新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月6日 その2 真鍋淑郎氏のノーベル賞の物理学賞受賞に思う

2021-10-06 16:52:36 | コラム
真鍋淑郎氏は偉い方だと思って尊敬した:

この度、真鍋淑郎氏がノーベル賞の物理学賞を共同受賞されたとの報道に接して、私は素直にと言うか単純素朴に「我が国には未だ幾らでも世界的な学者がおられるものだ」と、ただひたすら感心し「偉いものだな」と感じ入っていた。

だが、街頭のインタビューでは「感動した」との感想を述べておられた女性もいたが、感受性が何処か狂っているような私には感動は出来なかった。だが、真鍋氏は尊敬は出来ると思った。私は物理学など言い分野で研究を続けられることなどは、自分がこれまでに過ごしてきたのとは全く別世界のことであり「偉いな。素晴らしいな」とは感じても、感動する出来事ではなかったのが残念だった。

という次第で、ここから先は毎度お馴染みかも知れないマスコミ報道批判になるような感想を述べていこうと思う。

*給料が25倍になった:
真鍋氏が昭和33年(1958年)にアメリカに誘われてアメリカに渡って研究生活に入られた際に、「給料が25倍になった」と感激されたと報じていた。私はこの事実を如何にも驚いたような語調で伝える彼らの姿勢が気に入らないのだ。当時はアメリカドル対塩の為替レートは固定されていて「$1=¥360」の時代だった。これがどれほどのドルが強い為替レートであるかを考えれば、25倍の意味は解るはずだ。

仮に当時のアメリカで$10,000の年俸を貰えたとしよう。これは¥3,600,000である。12ヶ月で割れば月額¥300,000となる。当時の大卒の初任給が¥13,800などというザレ歌があった。30万円はその初任給の22倍ほどになるのだ。報道機関がここまで詳細に言う必要はないだろうが、少なくとも何らかの解説をしてもバチは当たるまい。彼らの論調だと「如何にも我が国の給与が低く、それが原因でアメリカに人材が流失した」というような、例によって例の如き自虐的な言い分に聞こえてならない。60年前の出来事で、現在の尺度で考えるなと言いたい。

*研究への投資:
研究費という視点に立てば、確かにアメリカの企業や研究機関や私立・州立の大学が投じている研究費やR&Dへの投資額を見れば、我が国は如何にも国家としても私的な企業や機関においても大きく見劣りがする。私にはこれが国家予算の立て方の問題であるか、大手企業の経営者たちにそういう面に投資していこうとの精神がないのか、あるいは劣化してしまったのか知らないが、非常に不十分だと思っている。

報道機関は直ぐに「頭脳流失」だなどと嘆いてみせるが、そうなってしまった原因を究明してほしいものだ。私はそこに「年功序列」の影を見る気もするが、無闇矢鱈に内部留保を積み上げる傾向があるが、時代の先を読むとか、無駄な研究かも知れない事柄に投資する度量がある経営者がいないのではないかと思えてならない。アメリカに渡って給料が増えて研究を心置きなく出来て、ノーベル賞を取った方の名誉を、自分たちの国の人の偉業の如くに賞賛するのは腑に落ちない。スウエーデンの発表では真鍋淑郎氏の国籍はUSAとなっていたぞ。

*海外で認められることがそれほど有り難いのか:
私は報道機関も兎も角、我が国には未だに「外国」や「海外」で何らかの業績を上げるか、または世界的な偉業を達成することや、海外で名を挙げることや、外国人を無闇に尊敬するというか有り難がっている傾向があることを、率直に言って「残念だ」と思っている。いや、何故もっと素直に自分が生まれ育った国と国民を誇りに思おうとしないのかと、報道機関に問いかけたいのだ。「最早戦後ではない」という言い方があるが、少しでも海外に出てみれば解ることで「我が国と国民は世界一流なのであり、何時までも外国を有り難がる時代は終わった」と解るのだ。

それは、確かに「ノーベル賞を獲得することは、その業績や研究の成果が世界の何処に出しても最高水準にあるという証明だろう」と思う。だが、私は我々自身で評価できる業績であれば、何もスウエーデンで評価されるのを待つまでもなく、自国に然るべき賞を設けて外国人にも与えて世界に「研究・開発に秀でた日本あり」と、堂々と名乗りを上げれば良いじゃないか。何時まで「誰それさんがノーベル賞を授与されました」などという号外を配っている気なのか。何時まで自国を卑下して外国を敬い続ける気か。

私がこれまでに何度「アメリカ人が100人いれば、我が国の水準から見てまともな者は10%程度しかいない。だが、精々1%から百歩譲っても5%辺りしかいないかと思う支配階層に入る傑出した者たちには到底敵わないと痛感させられた」と語ったか。それは確かに「自慢高慢馬鹿のうち」だとは認めるが、同時に不必要な卑下をする必要などないと思う。20年以上も単独でアメリカ人の会社で仕事をしてきた私は「日本人である事に誇りを持って良い」と確信している。報道機関には「自虐的な姿勢を捨てよ」と心の底から言ってやりたい。


世相あれこれ

2021-10-06 08:50:12 | コラム
この世には色々なことがあるもの:

*クアッド:
これが意味することを私がクドクドとここで解説する必要はないと思う。だが、残念ながら「クアッド」と最初に聞いたときには、直ちにその基になっている英語の言葉が思い当たらなかった。そして思い当たったのが“quad”だった。「またカタカナ語批判か」とウンザリされないで、お読み頂けると有り難い。どの辞書を見ても発音は「クオド」か「クオード」であり「クアッド」とはなっていないのだ。何で勝手に「クアッド」としたか不思議ではなく「またやったか」と思った。

これは“quadruplet”(=四つ子)を意味するような言葉の略語であって、類似の単語に“quadruple”(四重の)等があり、何れも「クオド」と発音する方が多いのだ。誰が恣意的に“quad”を「クアッド」と発音して表記したのだろうかと思うと、またもやウンザリなのだ。同胞にインチキの表示を知らせる意義はないと思うが。

*大谷翔平君の二刀流:
私はこの表現はおかしいと何度か批判した。言うまでもない事で、講談風に言えば「その昔に宮本武蔵が両手に剣を持つ何とか流の使い手だったこと」にその起源があるのだろう。だが、大谷翔平君は右投げ左打ちではあるが、両手打ちではない。英語の表現でも“two-way player”となっているようだ。以前にも触れたが、わが国のフットボール界では攻守両面に出る選手を「両面」とは言うが、二刀流などとは呼んでいない。当たり前だろう。

事の序でに批判しておくと、報道機関では「リアル二刀流」などと大谷が同じ試合に投手で出て打席に入ることを、このように呼んでいる。“real”とはジーニアス英和には「実在する、(想像ではなく現実の)とある。Oxfordには“actually existing or happening and not imagined or pretended”とある。単語ばかり覚えさせるから、こんな取り違えた解釈をしてしまうのだ。彼らが言いたいのは「実際に投手と打者の両面で試合に出た」だろう。私が思い浮かべた単語は“actual”と“genuine”だったが「二刀流」自体がおかしいのだから、英単語などどうでも良いと思う。

*「ジョー」と「フミオ」と呼び合う間柄:
こんな事を正気で報じるか記事にする、報道機関の感覚のずれを冷笑したい。これまでに繰り返して説いてきたことで、アメリカやヨーロッパの多くの国の習慣(「文化」でも良いと思う)では「ファーストネーム・ベイシス」なのである。即ち、特に親しい間柄になったからファーストネームで呼び合うのではなく、そもそもがそういう習慣なのである。そう呼び合うからと言って、特別に親密な間柄という性質ではない。その昔に故中曽根首相が時のレーガン大統領と「ロン・ヤス」の間柄になったと、彼らは絶賛した。「何を言うのか」の思いだった。

故中曽根首相も、安倍晋三元首相も彼らの習慣に合わせておられただけのことだ。彼らは初対面でもファーストネームで呼び合うのだ。時には“How should I call you, Mr. Trump or Donald?”のように確認すべき場合もあるが、一般的には初めて出会ってもいきなり"Hi, Joe!”と言っても非礼ではないと思う。報道機関の方々は海外に駐在経験がある人が多いのだろうから、もう好い加減に我が同胞を欺くような姿勢で報じるのを止めたらどうだろう。我らがジョージ・ウエアーハウザーなどはMr. Weyerhaeuserと呼びかけられることを嫌って「ジョージと呼べ」と求める人だった。

岸田首相は電話会談の冒頭で“How may I call you, Mr. President or Joe?”と切り出されたのだろうか。尤も、こういう習慣に馴れていないと、初対面のアメリカ人等にいきなり“Hello, Barack!”などとは言いにくいものだと、経験からも良く解っている。