新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月26日 その2 小室圭・真子夫妻の意見陳述を聞いて

2021-10-26 15:29:31 | コラム
「真実は一つである」のではないと言いたい:

小室圭・真子夫妻が結婚に至るまでの公開されなかった経緯と事実についての見解表明の会のテレビ中継の内容は、興味深いものがあった。私はあの発表会は断じて記者会見ではなかったと受け止めている。

先ず感じたことは「あの結婚に至るまでの経緯を、当事者である小室夫妻が語ればこういうことになるのか」と、あらためて持論である「出来事は一つであり、その出来事を、当事者とは全く異なる立場と視点から外側で見て報じてきたマスメデイアの報道の内容とは、あれほど違ってしまうものだ」と、再認識できたのだった。その点を真子さん(NHKを見ていたので、真子様という言い方を変えたのに準拠した)は「誤った情報が恰も真実のように誤解された報道の仕方に心を痛めつけられた」と指摘されたと解釈した。

敢えて再度言うと「一つの出来事を、異なる立場と視点と先入観念で見ていれば、当事者の予期せざる複数の真実のような報道になってしまうもの」なのであるということだ。夫妻が読み上げた陳述を聞いていると「報道する側が恣意的に流したことが、自分たちが行動してきた実態と異なっているので、悲しい思いになった」と聞こえてきたのだった。即ち、解りやすくしたつもりで言えば、起こったことは一つでも、そこには二つの真実があったようなことになっていたのだった。

小室氏の唐突なアメリカ留学が当時の真子様の提案であったなどとは、我々一般人には知り得る術などなかった。また、小室母子の借金か贈与か知る由もない400数10万円の件(しつこいようだが、私は「トラブル」などというおかしなカタカナ語を認めていない)についても、小室氏が述べた実質というか実態もマスコミ報道とは違っていたように聞こえた。

我々は小室圭・真子夫妻の今日の結婚に至るまでの実態と経緯をマスコミ報道でしか知り得なかったのだ。彼らの語ったことを聞いていると、報道が必ずしも真実ではなかったことに心を痛め付けられたと言いたかったように聞こえた。そう言われれば、そうなのだろう。だが、真子さんも圭氏もその気になれば、中間で「実態は斯く斯く然々である。誤解無きように」と発表できる機会があったのではなかったのかと、一寸残念のような気もするのだ。

あと一つだけ言えば、小室氏が読み上げた中には一言たりとも皇室と秋篠宮様についての言及がなかったのは意外であり、配慮が足りなかったのかと感じた。だが、想像を逞しゅうすれば「一切の皇室の儀式を省くような結婚になったことに対して、何か思うところでもあるのか」と感じ取れたのだった。

アメリカはニューヨークでこれから間もなく始まるであろう小室氏の仕事と真子さんのアメリカの中でも特殊な地域での種々の困難に直面するかも知れない生活が、恙無く進むことを祈念して終わる。


外で飲むことの文化の考察

2021-10-26 08:35:21 | コラム
「矢張りここで飲むと美味い」:

昨日辺りからのマスメディアの報道では、見出しのように「久しぶり」であるとか「1年半振りだ」のように言いながら、老若男女が嬉しそうに楽しそうに飲んでいる光景が強調されていた。身体的にアルコール飲料を受け付けない私には半分くらいは理解できても、半分は疑問に感じてしまう我が国独特の文化である。それを政府も東京都も共に新型コロナウイルス対策で色々な方法で制限してきた。これらの制約は一定以上の効果があったかのようだったので、継続されマスコミ報道では無数の外飲食業者が苦境に立たされるか、廃業に追い込まれたようだ。

私も17年有余お世話になった日本の会社勤務の頃には上司や同僚や仲間と飲み歩いていたし、その楽しさと面白さくらいは心得ているつもりだ。元々会社勤めをするまでは「飲むこと」を殆ど経験していなかったので、仲間たちと「飲みに行く」ようになったのは2年ほど経ってからだった。母親には「この世界を経験してみないことには、如何なる事かが解らないと思って飲み歩くことを理解して欲しい。だが、1年経っても飲み歩きを止めないようであれば、息子を失ったと思っても勘当されても結構」と、大変な決意の下に始めたことだった。そして、1年で止めた。

振り返れば、そのお陰で「皆と飲み、語り合い、笑い、会社の未来を語り、将来の希望を語り、上司の悪口を言い、結婚観を議論する」等々の楽しさを知ったのだった。その中にはなけなしの小遣いを叩いて、身分不相応に銀座に仲間たちと繰り出していったこともあった。当時住んでいた藤沢に帰る終電車の時間を忘れるか、酒に弱い欠陥が出て酔い潰れたためもあって、飲み仲間の親友の洗足池の家には「私用」の布団まで用意されるほどになった。

だから、外に出て飲むことをあのように心から喜んでおられる方々の気持ちは、十分に理解できると思っている。だからこそか、それにも拘わらずか、新型コロナウイルス対策の美名の下に、あそこまで外飲食業界に制限と制約を科したことの具体的な効果のほどが、数字なり何なりで示されていないことには、多少の疑問を感じている。私はアメリカの生活様式と比較した場合に「外で飲むこと」と「その業種の存在」は我が国の文化であると見ているので、そこにあそこまで踏み込んでいったことには、如何なものだったかと感じている。

その文化を尊重し、その楽しみを継続させるためには、一昨日と昨日に東京都の感染者が20人を切った時にこそ、更なる対策の強化は必須であると考えている。全国的にこれほど感染者が減少した原因を可及的速やかに解明して、それに基づいた策を講じて欲しいのだ。既に述べたように感染者の受け入れが不十分な多くの病院の督励も必要ではないのか。報道機関も「また飲めるようになって嬉しい」という類いのニュースだけではなく、追加というか更なる対策の強化の必要性を訴えて出るべき時ではないのか。飲めるようになって嬉しいのは彼らかと、私は疑っている。

終わりに「アルコールが体質に合わない」とはどのようなことかをお知らせしておこう。15年の入院の際に点滴の前に針を刺すところが耐えられないほど痒くなることを看護師さんに訴えたところ、検査されて「アルコールを受け付けない体質」と判明し、ベッドの頭の上の辺りに「禁アルコール」との紙が貼られ、カルテにも記録された。今では注射の前の消毒は「アルコールではない物質」になっている。看護師さんに「お酒は飲めないでしょう」と言われた。現に強制された訳ではなかったが、2000年代に入ってからビールをコップ半分も飲まないうちに失神していた。

現在は何処にでも設置されているアルコールによる手指の消毒で、両手の指があれて痛むので非常に苦しめられている。そこで、殆どの場合に「やった振り」で何とかしているのには、多少後ろめたさを感じている今日この頃である。