新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月10日 その2 不甲斐ないサッカーA代表

2021-10-10 14:02:41 | コラム
何故W杯出場が危うくなったのか:

先ほどTBSの関口の時間に出た中西は「何故勝てないか」について「対戦相手に我が方を研究し尽くされただけではなく、連敗したときと同じ顔ぶれで試合をしていたのも原因。12日の強敵オーストラリア戦には、今まで出していなかった新鮮なメンバーで戦えば」と指摘していた。それも現実論として一理はあると思うが、私は今日までの惨状(と敢えて言うが、余りに不甲斐ない出来だと思うよ)の原因は別の根深い所にあると思って見ている。

*森保一監督の問題:
私はズバリと言って「この監督は無策だ」と言いたくなる。その意味では中西の指摘は当たっていると思うが、問題はそんなに簡単なものではないと見る。私が最も気に入らないのは「あの再三再四指摘して来た『安易に後方にパスを回す責任回避と積極性というかやる気の無さと、その後方へのパスを受けたバックスたちが横から横へのパス交換で徒にボールの保有時間を延ばすだけであり、前線に佇む者たちが空いているところに走って見せない消極性を発揮する戦法を採っては勝てるわけがないのを、一向に是正しようとはしない』という習性を一向に是正しない」点だ。

私はこの無責任且つ弱気な傾向は、我が国のサッカー界全体を支配する風潮かと思っていた。だが、Jリーグや、大学や、高校等々のサッカーを偶に見ると、決してそうとはなっていないのだ。それが、一旦A代表に上がってしまうとあのような、良くいえば安全運転のサッカーをするようになってしまい、兎に角過ちを犯さないように懸命になっているようなのが情けないのだ。それを窘めようともしない監督は何の為にいるのかと思う私が間違っているのか。

彼の選手起用の問題点は中西が指摘した通りだと思う。だが、私が見ている限り監督は自分が選んだはずの全員を信用していないようなのも気に入らない。今や3人以上交替させても良い試合があるのだが、彼がその交代枠全部を使った試合を見た記憶がない。また、監督には好き嫌いがあるのは仕方がないと承知している。だが、彼はマスコミやスペインでは評価が高いと聞く久保建英を使うことは使うが、滅多に一試合通しては出さないで彼より下手だとしか見えない者と交替させ、他の私が評価していない伊東純也などは先ず変えないのだ。眼力も疑う。

1勝2敗となってしまった現時点で監督を交替させるわけには行くまいが、協会の田嶋会長は彼を変える気はないと明言した。もしかすると、会長さんにも監督を見る眼力が不足しているのかと思ってしまった。

サッカー選手の育て方:
スポーツ界では「サッカー界の体幹を鍛え、身体能力を向上させるような近代的な訓練の方法(カタカナ語ならば「トレーニングか」が遍く行き届いていないようだ)と見ているようだ。某大学のフットボールの監督で「アンダーアーマー」ブランドを我が国に広めたY氏は「ラグビー選手の体格のサッカー選手を育てよう」とクラブまで設けられたと聞いた。この基礎的なことに加えて、心ある往年の大選手たちが口を揃えて怒っておられるのが「自分でキープして相手を抜いてでもシュートに持って行こう」との気迫と意欲を感じさせない現在の選手たちの試合振りだ。

特に釜本邦茂と木村和司がその急先鋒だと思うが、私は彼らよりも数年上の古き良き時代のWMフォーメーションの年齢層にあるが、思いは全く同じで常に歯痒い思いで現在のサッカーを見ている。彼らを見ていると、昭和20年代に厳しく教え込まれた基本技は何処かに消し飛んでしまったような気さえするのだ。と言うことから考えると、現在A代表にまで来ている者たちが子供の頃からと高校または大学で仕込まれたサッカーを、森保監督には変えようがないのではないかと疑いたくなる。または、監督自体が「同じ穴のムジナ」なのかも知れないのだ。

私は張本勲を程には海外のサッカーや野球の傾向を気にしていないが、偶に見るヨーロッパの有名選手たちは個人技を活かしてボールをキープして抜いていき、シュートにまで持ち込んでいる。我が国でA代表にまで上がってきていながら責任逃れの横や後方へのパスをしてみせるようなことはしない。これは素晴らしくも何ともない当たり前のことで、何も昭和20~30年代のWMフォーメーション時代だけの特徴ではないと思う。だが、この積極性をそうではない教育を受けて育った者どもに試合で発揮させるように鍛え直すのは、あの監督には無理な話だろうと危惧するのだ。

現実的な問題:
森保監督の評価乃至は期待する度合いがどれほどか知らないが、久保建英と堂安律が壊れているのは、私には痛手だろうとしか思えない。それに「半端ない」とか言う枕詞が付く大迫には私は豪快な得点能力は期待していない。では、他にその能力を期待できる者が補欠の中にいるのかだが、彼らには多くは期待できないとしか見えない。それは結局は「自分でやれ」という育て方をされてこなかったのでは無理だということ。それに後陣で横パスを交換している間に相手は守備体系を整えてしまうのだから、何かをしようにもその隙などないので、責任逃れパスに終わるのだ。

A代表の中心選手が経験豊富な吉田、長友、富安、酒井と皆デイフェンスの連中ばかりなのも気懸かりな点だ。点取り係はテイームを背負って立っている訳ではないようでは困る。サッカーでも何でも守っていただけでは勝てないのだ。12日には大迫以下の奮起を期待している。


ノーベル賞の真鍋淑郎氏は「日本に帰りたくない」と言われた

2021-10-10 11:03:01 | コラム
矢張り切り取り報道だったようなのだが:

先ほど、何処のテレビ局かは失念したが、真鍋淑郎氏がプリンストン大学における記者会見の中のようで「日本に帰りたくない。何故なら日本では周りの人に迷惑をかけないように気を遣わなければならないから」という字幕を出して“I don’t want to go back to Japan. As I don’t want to do anything which is disturbing to other people.”(だったと思うのだ)との音声を流していた。

私は驚きと共にやや複雑な気持ちで聞いていた。「複雑な気持ち」を英語にすれば“mixed emotion”になると思うが。複雑だという意味は「公開の席でよくもそこまで思い切ったことを言われたな」という点があった。同時に「我が国の会社組織の中では、確かに周囲を気にするのだが、アメリカでは略(ほぼ)というか、先ずそういう気遣いはしないで済んでいたな」と同感だったし「迷惑をかけないような気遣い云々」はその通りかと感じていた。

そこで、ここに取り上げる前に、先ずどういう状況での発言だったかを検索してみた。すると、質問は「何故アメリカ国籍を選んだのか」だった。それに対する真鍋氏の答えを要約してみると「(前略)私の上司は寛容であらゆるコンピュータを買ってくれて、好きなように使わせて貰えた。それにここでは日本のように周りの人たちの邪魔をしないように気を遣う必要がないのだ。だから私は日本に戻りたくないのだ」となるのだ。決して爆弾発言のように聞こえる「日本には帰りたくない」と言われたのではないようだった。「巧みに切り取ったのだな」と感じた次第だ。

マスメディアの例によって例の如き手法だなとは思うが、ここではそれを批判するのではなく、真鍋淑郎氏の発言を私自身の経験に基づいて少し解説してみようと思う。「周囲に気を遣わないで済む」はその通りだと言える。それは「ジャブ(job)型雇用」からも感じ取れると思うことで「即戦力として(中途)採用された者は飽くまでも個人が主体で仕事を進めるのであって、周囲に気を遣うことなど先ずあり得ない」のである。

それは、周囲にいる者たちは皆異なる「職務内容記述書」に従って仕事をするのだから、他人の協力を期待することも、また援助もする訳がないのだ。真鍋淑郎氏の研究にしても、上司から十分な予算を与えられ、それこそ必要にして十分なコンピュータを与えられ、真鍋氏自身がやりたいと企画された研究に没頭しておられたのであろう。言うまでもない事だろうが、その研究を進める過程で周囲の誰かに気を遣う必要は生じないのだろう。その裏の意味は「日本に戻れば、そうは行かない」となってしまうのではないだろうか。

私の場合は言うなれば「本部から日本市場に派遣され、日本市場における全てを任されたマネージャー」である以上、あらゆる手法を駆使して責任を全うせねばならないのである。その“job”は部内の誰とも重複していないのであり、誰にも気を遣うことなく(と言っても、生殺与奪の権を握っている副社長兼事業部長には、これでもかという程遣うが)与えられた職務を自分の力だけで達成せねばならないのだ。真鍋淑郎氏はそういうアメリカにおける研究の在り方を好まれたのであろうし、それが真鍋氏に適合していたのだろうと察した。私とても同様だったと思う。

私は今日までに機会ある毎に繰り返して「我が国とアメリカの企業社会における文化と思考体系の違い」を語って来た。その間に「もしかして」と危惧していることがあった。それは「彼はアメリカの企業社会の在り方を礼賛しているのだ」と見られているのではないかという点だ。断言して置くが「優劣を論じてはいない。飽くまでも比較論である」だけのことだ。私をMeadに転出する機会を作って頂けたGN氏が指摘された「君は日本の会社組織には向いていない」というようなことを表しているのだ。

真鍋淑郎氏はその能力と個性に相応しいというか適切だった場所を探し当てられたのだろう。人にはその人次第で「向き・不向き」があるというのが結論だ。