新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月8日 その2 再度「ハードルの高さ/低さ」について

2021-11-08 09:57:55 | コラム
難易度を表しているのであれば:

先ず言っておきたいことは「カタカナ語に頼ることなく、地道に日本語で物事を考えて、普通に表現できる国語力を養おう」ということだ。

昨日「ハードルの高さ/低さ」を採り上げた際に言い忘れたことがあった。それは、俗に「ハードルが高いの上がったの」と、これでもかと言わんばかりにカタカナ語を使った表現は難易度を表しているのであるから、言葉の誤用であると決めつけたい。トラック競技における「110 mハードル」などでは障害物の高さは一定である以上、難易度を表すのには不適当であると言いたいのだ。「また言うか」と思われても言うが「何で英語の単語をカタカナ語にして使う必然性があるのか」なのだ。

昨日は「走り高跳び」や「棒高跳び」のバーの高さが上がっていくほど跳び越えにくくなるのだから「バーが上がった」と言えば良いじゃないかと指摘した。そこで「もう一つの難易度が問題になる競技に体操がある。そこでは、常に難易度をアルファベットで表しているではないか。例えば、内村航平はH難度の技を見事にこなしたと言うではないか」を書き漏らしたのだった。難易度という点では、フィギュアスケートには「4回転何とかジャンプ」等々があり、やり遂げれば加点されるという技の難易度ががあるではないか。

私がここで強調したいことは、何もカタカナ語の使用を排斥するだけではなく「何で意味を取り違えて英語の“hurdle”を持ち出してまで、『難易度』を言い表さなければならないのか」なのだ。例えば、「この案件については、ここまでは何とか達成できたが、ここから先は一層困難の度が高まるので一苦労だ」であるとか「あの国とこの問題を話し合うことには、これまで以上に難易度が上がってくると覚悟するべきだ」と言うように、普通に日本語で語るべきではないのか。

私の主張は「カタカナ語に過度に依存すれば、日本語で事の詳細を表現する能力が低下するだけではないのか」なのだ。その悪い例に「トラブル」がある。“trouble”をジーニアス英和で見れば、先ず「心配、苦労、悩み、心配事、」と出てくる。しかしながら、カタカナ語のトラブルは「揉め事、故障、事故、品質問題」等々のように重宝に使われて、最早英語の本来の意味など何処かに吹き飛ばされてしまった。この有様では「日本語で物を考える力が失われてしまうのではないか」と、私は本気で心配している。でも、言って置くが「どう使おうとご勝手に」なのだ。


再び「兎角この世には」を

2021-11-08 08:56:27 | コラム
「空手形を切る」と「やるやる詐欺」を:

かのスウェーデンの英雄のようなグレタ・トウーンベリさんが、先頃開催されたCOP26を酷評した挙げ句の果てに「各国の首脳は空手形を切るのを止めなさい」と言われたと報道されていた。昨日取り上げたばかりの大阪府知事・吉村洋文氏が「自公内閣が一向に憲法改正に乗り出さないのは『やるやる詐欺』と決めつけた」のと同じような後難を恐れない言い方だと思って聞いた。

*空手形:
そこで、今回は英語の話に持っていこうと思う。あの報道ではトウーンベリさんが吠えていた音声が流れなかったので「空手形」を英語で何と表現されたかは聞こえなかった。実は、私はアメリカの会社勤務の間に、手形や小切手や現金に関連した仕事をしない営業担当だったので「空手形」を英語でどのように言うかを知らなかった。そこで、和英辞典を引き、Weblio等で検索してみた。

難しい表現では“fictious bill”というのが出てきた。「なるほど、そう言うだろうな」と思った。次に「空手形を切る」は“to fly a kite”というのが出てきた。“kite”は「凧」のことだと知ってはいたが、ジーニアス英和には「融通手形;不正小切手」と出ていた。そこで「なるほど。不正な手形を飛ばすのか」と妙に納得した。ここまでで「会計の分野の実務の知識不足か」または「語彙が貧弱だったのか」と反省した。

*やるやる詐欺を英語で:
次に、それならばと昨日吉村洋文大阪府知事が自公内閣を酷評された「やるやる詐欺を英語にすればどうなるかな」と考えて見た。そこで、ふと浮かんだ表現で実際に使ったか、同僚たちが言ったのを聞いた記憶もない“He is all talk and no action”だった。Weblioにもこういう表現が出ていた。例文は簡単に“He is all talk and no action.”と出ていた。「詐欺」そのものは“fraud”(「フロード」で良いと思う)というのだが、やるやる詐欺となると、このような慣用句の形で逃げるしかないかと思った。要点は「この辺りに英語におけるものの考え方の違いがある」ということ。

現実に立ち返れば、私は各国の首脳が掲げられたような2030年や2050年に本当に「カーボンニュートラル」とやらが達成できるのかなと疑っている。しかしながら、残念だがそれが「空手形」だったか「やるやる詐欺」だったかを見極められるまで、私は生きてはいないだろうということなのだ。