Englishという外国語と日本語とは違うのだ:
何処がどう違うのかと問われれば、私には「OSが違うのだ」くらいのことしか思い当たらない。Englishを勉強するときに少なくとも、日本語と同じような感覚で捉えていては、容易に思うように身に付かないものだと、私は考えている。特に「英文法」はその異なるOSの代表格であるから、そこに縛られると余計にEnglishが解りにくくなると思っている。
自分の経験で言えば、私は幸か不幸か中学1年の後半から「Englishで話すこと」を学んだので、文法の勉強が後から付いてくる結果になった。解りにくい言い方かも知れないが「自分が話せるようになった言語の文法という規則は後から付いてくる結果になり、比較的覚えやすかった」という記憶がある。言い方を変えれば「先に文法を教えられてそれに束縛され、自分が言いたいことと書きたいことを無理矢理文法に当て嵌めようとしないで済んだ」ということ。
偉そうに言えば「お陰様で文法は良く解るようになっていた」のだ。そして、39歳にしてアメリカの会社に転進し、英語が公用語になってしまった。1975年に2社目となるウエアーハウザーに移ってから、同僚に訊かれたことがあった。それは「君は自分の国語ではないEnglishで暮らすようになって、Englishのどの点に最も難しさを感じているか」だった。
迷わず答えたのが「時制の一致(sequence of the tense)と、定冠詞(definite article)と不定冠詞(indefinite article)の使い方」だった。彼は「時制の一致は解るが、定冠詞と不定冠詞の使い方なんて我々だって良く解っていないのだから、外国人の君が解らないのは当たり前」と言って、寧ろ大笑いだった。
実は、この難しさを如実に経験したことがあった。それは、2003年頃だったかと記憶するが、某有名私立大学のT教授がご専門の分野でのアメリカにおける最高の権威である学術誌に論文を投稿される際に、及ばずながらお手伝いをしたことがあった。門外漢の私には何が論じられているかもサッパリな儘に完成まで協力した。審査は3人の権威者が無記名の論文を読まれて、全員一致でなければ失格となる規定だった由だ。
当時はアメリカに研究留学中の教授からの連絡では「論文の内容は合格だったが、時制の一致と定冠詞と不定冠詞の使い方に問題点があるので、訂正の上再提出をとなった」だった。学術論文ともなれば、当然と言えば当然だが、あれほど教授と共に読み返していても欠点があったのかと、寒気を催したほどの恐ろしさを痛感させられた。「俺の英文法には未だ未だ力及ばぬ点があったのか」と非常に落ち込んだ。
幸いにも再提出された訂正できた論文は合格で、日本の学者としては初めてその学術誌に掲載されることになり、教授の学界における権威が立証されたのだった。
ここまでで、理解して頂きたい事は「自慢話をしているのではなく、学術の世界でも、私が永年在籍した実業の分野でも、Englishの世界では言葉についてはこれほど厳格に厳密に品位が問われるのだ」なのである。Englishを学ぶ場合には、是非ともこういう点があることを忘れずに努力して貰いたいのである。だが、念の為に指摘しておけば、我が国の一流企業にあっても社内の報告書にまでも、その社格に相応しい品位が求められているのだということ。
Englishは決して「ブロークンで良い」とか「pidgin Englishでも通じれば良いのだ」などと「ハードルを下げて」はならないのだ。私は上智大学で千葉勉教授に厳しく指導された「文法を間違えているようでは、無学で無教養と看做される厳格な世界があると承知して勉強せよ」が絶対に正しいと、後年身を以て経験した。
余計なことかも知れないが、私は上述の「ハードル」の高低を論じる言い方はおかしいと思っている。障害物レースではハードルの高さは一定である。これを言いたいのならば「走り高跳び」の「バー」のような基準が高いか低いかを取り上げる方が正しいと思うのだ。