交通遺児は言う::
マスコミは何かというと、秋葉原での高齢者の無謀運転で妻子を失った某氏の意見を採り上げているのを聞かされて、何とも言いようがない虚しさというか、やりきれなさを覚えている。
当方は昭和12年(1937年)12月に貰い事故で45歳だった父を失った時は4歳だった。我が家の大黒柱を失ったのだ。その後8年経った1945年4月には(旧制)中学1年生の時に、アメリカの空襲で家と家財の一切を失った。偶々私が病弱で藤沢市に療養をかねて転地/疎開していたので、母と弟共に無事だった。
そして、母親に「父を失って大変だったし、今後成長しても他人様を傷つけるかもしれない車の運転を覚えないこと」と命令され、弟と共に守った。
ところが、他人様を傷つけなかったが、弟は1964年に神奈川県でアメリか兵の飲酒、免許証不携行、中央線突破の運転で正面衝突された際に、助手席に座っていて顔面を半壊させられた大けがを負い、会社復帰まで2年近くを要した。大損失だった。
私は1985年10月にシアトル市の郊外で「言うなれば前方不注意」の車に左折中を真横から当たられて、肋骨2本骨折、頸椎2箇所損傷、顔面強打の大けがで自律神経失調症等を併発して、復帰まで半年を要した。交通事故、それも貰い事故でどれほどの目に遭ったか、どれほどの精神的な被害を被ったか、どれほど悲惨の状態になるかを、本が1冊書けるだろうくらいに、事細かに経験した。
その怪我による辛さも然る事ながら、その損害から補償を取る為の手続き、と言うか保険求償等々を日本にいながら、全く事情を弁えていないとうか、外国人との折衝に不慣れなアメリかの保険会社と、怪我と自律神経失調症等による苦しみの最中に交渉せねばならなかった等々の経験をしていたのだった。要するに「アメリかで事故に遭うとどうなるか」を知る珍しい存在になっていたと思う。