Englishと英語には夫々異なる文化がある:
Englishと英語は違うのだ:
私は既に何度も「Englishと英語は違うのだと認識せよ」と論じてあったが、今回はあらためてその相違点を取り上げておこうと思う。念のために再確認しておくと「Englishはアメリカ、UK、オーストラリア、ニュージーランド等の諸国の言葉を言う」のであり「英語とは我が国の学校教育で取り上げられているEnglishによく似ている外国語である」という事である。
Something like baseballをやりたくない:
この話をご記憶の方がおられれば有り難い。1987年にMLBから最初にNPBに転進して大きな話題を提供したJames Robert “Bob” Horner(アメリカではバブ・ホーナーであり、断じてボッブ・ホーナーではない)のことから入って行こうと思う。ホーナーはが1年だけヤクルトに在籍して「もうこれ以上something like baseballをやるのはイヤだ」との捨て台詞を残し得アメリカに帰っていった。我が国の「野球」に対する痛烈な皮肉である。即ち、「日本でやっているのは発祥の地であるアメリカのbaseballとは異種の競技である野球だ」との指摘だった。
私が言いたいことは「我が国の学校教育における英語とは、baseballと野球が違っていたるのと同様に、something like Englishを教えているのだ」という点なのである。学校ではEnglishとは異なった「英語」という科学というか「英語学」を教えているのだとご理解願いたいのである。
Baseballと野球は違うという事を示す一つの実例がある。それは、2012年にMLBに転身した慧眼のダルビッシュ有はシーズンに入る前のキャンプの時点で「アメリカでは野球ではなくて、何か異種の競技をやっているのではないかと感じた」と喝破していたこと。立派な見識であり、baseballと野球の違いを短時間で見抜いたとはたいしたものだと感心した。
では、どのように違うかを簡単に言えば「MLBでは選手個人の能力と力量を示して競い合うことが主体となっていて、選手個人がティームの勝利のために自ら犠牲となってバントをするような組み立てはしない」のに対して、「NPBの野球はティームワーク、即ち全体の和が基調になっていて、全体のためには個人の犠牲も厭わない精神がある」点が違うのだ。
本稿の主旨は野球とBaseballの相違を論じるのではないので、この比較論はこれくらいにして話を先に進めよう。
我が国の学校教育における英語の在り方:
次に掲げるいくつかの項目は我が国の学校教育では教えていない事柄であると言えると思う。だが、Englishという言語を正しく理解して、外国人と自由に意志の疎通を図れるようになる為には、是非とも心得ておくべき「文化と思考体系の相違点」なのである。
恐らく、そんな事を覚えても学校での英語の成績が挙がらないだろうし、TOEICや英検等々の試験で好成績には繋がらないだろうという意見は出るだと思う。私はここでそういう目的の為の勉強法を説いていこうというのではない。何とかして誰しもがEnglishを適切に学んで“How to express oneself in English.”を目指して進む道を切り開けるようになればと願っているのである。
英語の勉強法については、読者諸賢に信じて頂けるかどうかは別だが、私は断固として年来の主張である「音読・暗記・暗唱を繰り返すこと」を取り上げておく。そんな方法で学校の試験で良い成績が挙がるのかと問われれば、私は中学から大学まで英語の試験で90点を下回ったのは2回しかなかったとだけ申し上げておく。英語の勉強法は既に何度も述べてあったので、これ以上はここでは触れない。
二進法的思考体系:
私がEnglishと英語の最も大きな違いの一つであると認識しているのが、Englishにおける二進法的な思考体系である。それは「日本語では断定的な表現を避けるので、最後まで聞いていないと何が言いたいのか分からないように話せるが、Englishでは主語に続いて動詞が来るので何を言いたいのかは直ちに分かるような語順になっていて、物事を断定的に表現している」言語であることだ。
何時のことだったかテレビCMに「会社を辞めるのを止めようと思ったのを止めた」というのが流れていたが、Englishの世界では先ずこういう曖昧な表現に出会うことがない。疑問の余地を残さないように言い切るのがEnglishの特徴なのだ。この日本語との相違点を承知しておく必要がある。
Englishとは個人の意思を表現する言語:
私が感じている第2の相違点が「自分の意思で表現することが肝要であり、特にビジネスの世界では伝聞を語るのは禁物だ」ということだった。常に「私はこのように考える」というように主語を「私」即ち“I”にする思考体系なのである。お気付きの方もおられるかと思うが、私はこのEnglishの話法から未だに離れられないので常に「私」を主語にした表現をしているのだ。要するに「Englishとは個人の主体性を重んじる言語だ」ということ。換言すれば「伝聞を語るのならば、その源を明確にせよ」という考え方なのである。
故に、我が国の学校で教えられている「It ~ that ~の構文」や“They say that ~.”や”I was told that ~.“のような「誰が言ったのか」が明らかではない伝聞は認められないのである。
同時に、学校教育で育ってきた方たちが使いたがる“if”や“maybe”を使って曖昧に表現するのも通用しないのがEnglishの世界なのである。「ハッキリと自分が思うことを言う」言語なのだと心得ておくべきなのだ。
逆さの文化:
簡単に言えば「Englishとは日本語とは語順が反対な言い方が多い言語であり、文化なのである」のだ。私が「ここでも違うのか」と感心した相違点があった。それは、英語の世界では家族の子供を紹介するときに下の子供から言い出すこと。日本語の文化では先ず「長男が何歳で次は次男が」となるが、Englishでは日本式の紹介の仕方に出会ったことはなかった。住所でもEnglishでは先ず何番地、何丁目、何通りから始まるが、日本語では日本国とは言わないが「東京都新宿区大久保」のように求心的になる。手招きだって掌を上向きにしているのがEnglish風なのだ。
不規則性:
私が常に取り上げているように、Englishではローマ字読みのように「規則正しく綴りそのままでは発音しない単語が多い」ので悩まされる。最近しきりに「アクアリューム」のCMが流されているが、aquariumの発音は「アクエアリアム」と書けば最もEnglishに近くなる。これは“a”をローマ字のように「ア」と発音しないで「エイ」とする一例である。
他にも“patriot”がある。この発音をカタカナ書きすれば「ペイトゥリアット」としたい。だが、我が国に広まっているカタカナ表記はローマ字読みで「パトリオット」である。「オアシス」の“oasis”は「オエイシス」がEnglishの発音。何度も取り上げたがプロゴルファーの青木功氏の名字は「エイオキ」とされてしまうのだ。
他には動詞がEnglishの不規則性をよく示していると思う。日本語では「規則動詞」となっている”regular verb“だが、実際には不規則動詞(irregular verb)の方が多いのである。その不規則ぶりをよく覚えておかずに間違えると「無教養」の誹りを免れない世界だ。私は「費用がかかる」という意味の”cost”が不規則動詞であることを忘れて”costed“と言ったアメリカ人がいたのを聞いた記憶もあるし、teachedと言ってから慌ててtaughtに訂正した同胞にも出会った。Englishとはこのように面倒な言語なのだ。
この他にも「文化と思考体系の相違点」は未だ未だ間違いなくある。だが、それらを全部か語っていては長くなってしまうので、今回はこのここまでで切り上げることにする。だが、熟読玩味して頂ければ、少しでもEnglishと英語とは違うことがお分かり願えると信じている。学校で教えられてきたことと何処がどのように違うかを、比較検討していただければ幸甚である。
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